岸和田城 kishiwada-castle |
大阪府岸和田市岸城町 |
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天守/石垣/二の丸下の石垣と櫓は武道場(左列)
隅櫓と堀/天守閣から俯瞰した「八陣の庭」-諸葛孔明の”八陣法”をテーマに、中央の大将を中心として、
天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配したもの/酒造用に使われていた甑(koshiki)用大釜・経150CM(右列) |
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にゃごりんさんご一家 |
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別名 |
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千亀利(ちぎり)城 |
築城年代 |
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南北朝時代 |
縄張・種別 |
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---/平城 |
築城者 |
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和田氏 |
遺構 |
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石垣・堀 |
復原 |
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模擬=天守・櫓門・大手門 |
国指定 |
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攻城年月日 |
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---・2009/3/吉日 |
【歴 史】
建武元年(1334)建武中興(けんむのちゅうこう)により、功労者の楠木正成は摂津・河内・和泉三国の守護職を与えられた。
当地を与えられたのは一族の和田新兵衛高家、海岸沿に城壁を築いたのが始まりで、こういった立地から「岸の和田」との呼称が生まれ、高家のことも「岸和田」といった。なお、この地は和泉における武家方の支配拠点であり、この重要性は後世まで続くこととなる。
南北朝から戦国時代へとときが移り、阿波国(徳島県)を本拠地とする細川氏の支配下に置かれた。
「阿波→淡路→岸和田」という海路が、畿内を威圧するのに絶好なルートであったようだ。
その後、細川氏は実権を家臣の三好長慶に奪われ、その一族安宅兵庫が支配する。
永禄3年(1560)長慶の弟義賢は城を修築し、2800の阿波軍勢を迎え入れた。
天正11年(1583)には豊臣秀吉の腹心中村一氏が城主となり、根来・雑賀一統来攻に備えた。
翌12年雑賀・根来衆は、豊臣秀吉が小牧・長久手合戦に尾張へ進出した隙に紀伊国(和歌山県)経由で進出、一氏は和泉衆を集め城を固め守り抜くことに成功。
翌13年、これを期に秀吉は紀伊制圧に向けて岸和田へと兵を進めた。
慶長2年(1597)小出氏が城主のとき、紀州街道の要所として、また紀州の押えとして5層の天守を持つ本格的な近世城郭へとますます要塞化。
元和5年(1619)小出氏転封後松平康重が入封。
寛永10年(1633)岡部宣勝が摂津高槻城より入城、宣勝はときの三代将軍徳川家光の信任が厚く、家光の叔父に当たる御三家紀州藩の”見張り役”的な役目を負っていた。
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photo:shing02さん/にゃごりんさん(下1葉) |
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