高槻城 takatsuki-castle 大阪府高槻市城内町

高槻市「インターネット歴史館


遺構/石垣(資料_卒業アルバム記事をもとにまとめてみた)
1975年11月、旧体育館を壊し新体育館建設が始まった際、基礎工事にともなって、高槻城本丸石垣が出てきた。
江戸時代に作られた高槻城の絵図面は伝わっており、それらによって島上高校は本丸の上に位置していることは以前から知られていたが、絵図に基づく推定は漠然としたものであり、しかも明治初年に破却されて以来、城の構造については詳しくわかっていなかった。
新館校舎の西端で、大量の栗石(ぐりいし)の下から、花崗岩の石垣が検出された結果、従来絵図上で推測されていたとはいえ、この一角がまぎでもなく、本丸西南隅の天守跡であることが判明した。
この石垣は、前年に本校正門の場所で見つかった本丸門の石垣よりひとまわり大きな石である。

高槻城は地盤の軟弱な沖積層の上に築かれたので、天守・櫓・門などの要所を石垣でかため、他は土塁であった。
調査により、特に重要なことは、軟弱地盤に重厚な石垣をどのようにして築いたかという近世の土木技術を明らかにしたことだろう。

手法
@. 天守西側と南側の平面「L字型」に屈折するところの縄張りに従って、幅≒7m(4間)・深さ6m(3間)の溝を掘る。
A. 溝の両壁は直角に近く、外壁に沿って長大な胴木を横たえ、これを枕木に直径30cm(1尺)・長さ6mの丸太を1m間隔で並べる。
B. この上に長大な胴木を2列に並べ、連結する部分とう要所は杭でしっかりとめる。(胴木を置く前にあらかじめ全面に松葉敷きつめてあった)
C. 最下段の石は、2列の胴木の上に小口を外側にして据え、その裏に大量の栗石をつめる。
D. 石材を積み上げるには、石垣面の傾斜を揃えるため、溝の外壁と石垣面のわずかな空間に遺方(やりかた)を設け、石材の背後をかためるため、長い丸太材を付置し、順次石を上方へ組み上げる。

石材には石工が刻んだ楔穴や刻印・墨字がある。
その他、はつり取った大きな石塊は、基礎を固めるため、石垣の外側に積み、基部から2mほど上のあたりから、斜めに掘って石垣をとりまく濠をつくった。

中世の土木工事とは比較にならない大規模な組織的工事の実際がみえる。
この遺構はいま静かに本校の下に眠っている。

※栗石(ぐりいし)
玉石または割石の小さいもの、基礎ならし・土留めよう壁の裏込みに用いる。
※遺方(やりかた)
建設する建物の正確な位置を決めるために設けるもの。


別名 --- 築城年代 正暦年間(990〜994)
縄張・種別 ---/平城 築城者 近藤忠憲
遺構 唐門・高麗門(他所へ移築)
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/8/20(資料Get)


【歴   史】
近藤忠憲が平野部に館を築いたのがはじまり。
南北朝時代、足利尊氏の家臣入江氏が駿河国(静岡県)からこの地に入り、近藤氏の後を継いで代々領地とした。
その後、足利義昭や織田信長に仕えた近江国(滋賀県)甲賀出身の和田惟政(これまさ)が、芥川山城(高槻市)に入りやがて高槻城を手にし拠点とする。惟政自身はキリスト教信者ではなかったようだが、イエズス会の庇護者となり、これらの人材を駆使して芥川山城をしのぐ規模で、天守や櫓を造り高槻城を大きくし、摂津国(大阪府)を三分した三守護のひとりにまで出世した。
元亀3年(1571)惟政は三守護のひとりである池田氏と荒木村重連合軍と戦い戦死。
天正元年(1573)惟政の子惟長が家臣の高山氏と戦い、敗れて和田氏は滅亡。
バリバリのキリシタン大名高山右近が城主になると、高槻では盛んに洗礼が行われ、平行して城の改築が進められた。
天正6年(1578)信長から摂津の支配を任されていた村重が信長に背いた事件で、右近は村重の与力として同調したのがもとで高槻城を追われることとなる。このとき、城郭が堅固であるため力攻めを嫌った信長は、おとなしく開城しなければ宣教師を罰する、と脅したという。

photo:にゃごりんさん


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