広島城 hiroshima-castle |
広島県広島市基町 21 |
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5重5層の天守は西と南に付櫓をもつ/二の丸表御門/二の丸から本丸への橋/天守より市内の展望(左列)
二の丸の櫓群・左奥から平櫓・多聞櫓・太鼓櫓/二の丸表御門にかかる橋と平櫓/天守内の狭間/城址の碑(右列) |
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別名 |
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鯉(り)城 |
築城年代 |
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天正17年(1589) |
縄張・種別 |
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桃山初期の様式/平城 |
築城者 |
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毛利輝元 |
遺構 |
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石垣・堀 |
復原 |
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復興=天守・表御門 |
国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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【歴 史】
天正17年(1589)吉田郡山城を本拠とした、戦国屈指の大名である、毛利元就の孫の輝元が広島へ進出し築城した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の折り西軍の総大将となり、負けて広島を去ると、徳川家康に味方した福島正則が入城するが、豊臣秀吉子飼いの将であるため家康に煙たがられていた。
元和5年(1619)三の丸の石垣を幕府に無断で修理したと咎められ、正則は信濃国(長野県川中島)へ移封された。
以後、家康の娘婿の浅野長晟(ながあきら)が紀伊国(三重県)和歌山城から入り、426,000石で12代250年在城し明治維新を向かえた。
廃城後、城址一帯は陸軍用地となり、日清戦争では大本営が、太平洋戦争では本土決戦に備え第二軍司令部が置かれた。
昭和20年8月6日、原始爆弾投下により、天守をはじめ残っていた建物もすべて失ったが、城郭基盤である石垣とうは焼けたとはいえ、大修理の必要もなく昭和33年に天守が、続き櫓や門も復元された。
昭和28年、国の史跡に指定され、天守は平和のシンボルとして堂々と建っている。
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photo:シリウスさん |
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