佐敷城 sajiki-castle 熊本県葦北郡芦北町佐敷

城山遠景/本丸東門跡/本丸追手門跡(左列) 本丸跡/旧石垣と本丸の石垣/二の丸から見た本丸(右列)


別名 --- 築城年代 南北朝時代
縄張・種別 ---/山城 築城者 佐敷氏
遺構 曲輪跡・堀切・石垣
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2004/2/19


【歴   史】
標高85mの山城は南北朝時代に薩摩の名門・篠原氏(さかのぼると物部氏までいくかも)一族・佐敷氏が築いたといわれる。
永禄2年(1559)こちらも名門・人吉城の相良氏が勢力をのばし佐敷城を奪取。
天正9年(1581)こんどは島津義弘がこの地を相良氏から奪い、家臣の宮原景種が佐敷荘の地頭として城主となった。
天正17年(1589)加藤清正が治め重次が城代として入城。
天正20年(1592)重次が清正に従い朝鮮へ出兵の留守に「梅北の乱」勃発!薩摩の武将・梅北国兼が佐敷城乗っ取りを企み成功させたが、3日後に留守部隊が国兼を謀殺し事無きを得たという。
その後、一国一城令で城は取壊されたが、細川氏の領土になってから城下に番所が置かれた。

【資   料】
-梅北の乱に関して新情報-※ばつまるさん提供
04/3/9の読売新聞九州版によると、佐敷城を舞台に起こった「梅北の乱」は史実では梅北国兼とその配下5.6人で佐敷城を占拠し、僅か3日後に加藤家留守部隊によって鎮圧された事件として知られてますが、最近発見された新資料によると佐敷城を占拠した数は 結構大きな戦並の730人を動員!
しかも別働隊として八代城攻略部隊が別に1千人!!
もっとも八代城攻めは首謀の梅北国兼が酒席で殺害された為、攻撃は中止され別働隊はそのまま薩摩へ戻る事になったが、その千人も帰路の途中殆ど討ち取られたそうです。
梅北国兼の一味が佐敷城を占拠した期間は6/1〜6/15の15日間、佐敷占拠組730人+別働隊1000人の一反乱とは言えない大部隊。
秀吉は「梅北の乱」が影響し各地で反乱が起きるのを恐れ、実際の規模よりも人数/日数を少なく表し小さな事件扱いし、なおかつ気に入らない島津歳久に事件の責任取らせる形で切腹させたらしい。
う〜ん、やっぱそうだろうなぁ。
あの堅城の佐敷城がたった5、6人で落とせる訳ないし、たった3日で奪回するってーのもおかしいもん。

【攻城記】
加藤清正が薩摩に備えて築城した佐敷城です。
佐敷城は以前水俣城攻めの帰り「つばめ」の車中から偶然見て気になってた城跡で、登って見ると期待に違わず石垣の見事な城跡でした。
本丸跡も眺望良く、地面も芝が冬枯れしてなかなかイイ感じ、なんかなにもせずポーっとしたくなる城跡です。
お城としては現在は平地が広がる西側も当時は城山からすぐ海だった様で、感じとしては半島に突き出た山に築かれた山城で、秀吉をして堅牢な城と言わしめる城だけあって攻め難い城だった様です。
ただ佐敷城は加藤清正築城と言われるものの自然石を組んだ石垣の上に(右列2段目参照)犬走り的なスペースを設け、その上に加工石で組んだ清正好みの堅牢な石垣が組まれてます。
自然石による石塁と本丸跡の石垣は石組みの方法と組まれた年代が違うそうなので、もしかしたらこの佐敷城は元々あった砦跡を利用して築城されたのかも知れません。
一国一城令の後は番代屋敷が作られ、街道の入り口を木戸で抑えた関所的な町として存続した様です。
絵図によると番代屋敷の回りは「士」の武家屋敷で固められ、背後には佐敷城のあった古城跡が記してあります。
佐敷を出て熊本へはすぐつづら折りの峠道となり、佐敷は肥後と人吉への街道を押さえる要地だった事が伺えます 。

photo:ばつまるさん


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