人吉城 hitoyoshi-castle 熊本県人吉市麓町

手前が隅櫓・奥が大手門多聞櫓/武者返しのある石垣/水の手門から三の丸・二の丸への石垣と石段(左列)
大手門横長櫓・櫓横には防衛の石落し/舟口のある水の手門跡/球磨川越しに城郭の全景(右列)


別名 繊月(せんげつ)城 築城年代 建久年間(1185〜98)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 相良長頼
遺構 石垣
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2003/8/4


【構   え】
鎌倉時代に城郭建設のため造成していると、土の中から三日月形の石が出たというので、「三日月城」ともいわれる。
中世の城郭から近代城郭に整備され、本丸(旧内の御城)の下に二の丸、三の丸を囲む周囲≒2,200mの総曲輪を設け、北の球磨川と西の胸川を外堀とし間に城下町(球磨川の北が町家・南が武家)が造られた。

【歴   史】
建久9年(1198)、鎌倉時代に遠江国(静岡県)に相良荘を営む相良氏が、地頭として肥後国(熊本県)に下向したのが人吉城の始まり。
この地には、もともと矢瀬主馬佑という平頼盛の館を守る豪族がおり、相良氏初代の長頼が討ち破り、館を山城へと移した。
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐により球磨郡を安堵。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では西軍から東軍へ転じ領土は安泰、江戸時代に2万2千石の藩主になる。築城から約670年間、人吉城は相良氏の城であった。
文久2年(1862)、ときはばつまる!ぢゃなくて...幕末、城下の大火事が元で、藩を二分して開国佐幕派Vs尊王攘夷派の闘争がはじまる。
城に燃え移った火が武器庫を焼いて武器や武具がすっかり燃えてしまったので、その補充をめぐり「山鹿流」を主張する尊王攘夷派に対し、「オランダ式」にしようとする開国派とが激しく争い、とうとう慶応元年(1865)、尊王派による開国派20名の上意討ちを決行、開国派14名が斬殺され2名が自害に追い込まれた。事件後、武器はどちらでもない和洋折半とすることにして、同3年にイギリス式の軍制を導入。
明治10年(1877)西南戦争勃発。
人吉藩では350名の兵を組織して西郷軍に参加したが、熊本城奪取の失敗や田原坂での敗戦に、人吉隊も多くの戦死者を出した。この直後、城下がエライことに!!!なんと、敗走してきた西郷軍が陣を構えてしまったのだ。
「おいどんも着陣でごわす」
って、約1ケ月にわたり政府軍との激しい攻防の末、政府軍が人吉に突入し城下や城に向かって大砲を撃ちまくると、西郷軍は球磨川にかかる橋を焼き落し退却。あとに残るは灰燼に帰した町だった。

photo:ばつまるさん


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