別名 |
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築城年代 |
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天智天皇4年(664) |
縄張・種別 |
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朝鮮式/山城 |
築城者 |
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大和朝廷 |
遺構 |
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石垣・土塁 etc |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2004/8/3 |
備考 |
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復元図 |
【構 え】
大宰府政庁の背後にある四王寺山(標高410m)に築かれ、山頂からは博多湾や筑後平野が見渡せ、とくに博多湾方面から侵攻してくる敵には城の実態がわかないような構造になっていたという。
全山が城郭であり、規模は東西2km・南北1.5km・面積180ha、土を突いて固めた土塁8kmが囲み、さらに南と北は2重土塁とした。
谷には石垣が築かれ、最大規模の石垣「百間石垣」は長さ180m・高さは≒4m。4ヶ所の城門、70以上の建物跡が確認された。
有事の際には数万人がろう城できるという。
【歴 史】
白村江(はくすきのえ)戦の翌年、天智天皇3年(664)に大宰府防衛のために水城が築かれ、その翌年にこの大野城と”基い城”が築かれた。
大野城と”基い城”は、百済が滅び日本に亡命した、億礼福留・四比福夫という技術者の指導により造られ、当時の朝鮮の山城がモデルとなっている。
9世紀後半まで機能していたが、朝鮮半島との関係が緩和されると、奈良時代以降は非常時に備え備蓄施設として利用されたと推察される。
【攻城記】
大野城跡は峰と峰を土塁で繋ぎ、谷は石塁で塞いだ大要塞です。<復元図
実際こんな所に遺跡は無いだろうと思う様な場所にまで大野城の痕跡が残ってます。
山の麓に百間石垣を見付けた時などよくぞここまで手を掛けたもんだと感心したもんです・
この大野城の規模に比べれば戦国期の山城なんて小せぇ小せぇ
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