浪岡城 namioka-castle |
青森県南津軽郡浪岡町浪岡 |
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城址の碑/内館の土塁跡/濠と土手・武家屋敷跡「北館跡」は右側(左列)
濠として機能した浪岡川と氾濫原跡/各郭を結ぶ土手にかけられた橋と「北館跡」(右列) |
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別名 |
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築城年代 |
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室町時代(1460年代) |
縄張・種別 |
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---/平城 |
築城者 |
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北畠顕義(あきよし) |
遺構 |
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本丸土塁・二重空堀 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2002/8/25 |
【構 え】
東西1.2km・南北600m・面積≒136.500u。
「内館」「北館」「東館」「西館」とう8つの館(郭)が扇形に広がり、幅20m・深さ5mの二重の堀で分けられているのが特徴。また、土塁の上を通路として利用し、城郭全体が迷路のようであったという。
築城者北畠顕義は5代当主である。
【歴 史】
元弘3年(1333)10月、北畠顕家(親房の二男)は後醍醐天皇の命により陸奥守として多賀城に入り、奥州武士を統率下においた。
建武4年(1337)顕家が和泉国(大阪府)で戦死したのち、弟の顕信が兄の意志を継いで奥州を治めようとしたが、北朝方に次々と拠点を奪われ北へ追いやられ、とうとう本州の北の果て津軽の浪岡でようやく安住の地を得たという。
土地の豪族行岡(浪岡)の娘との間にもうけた顕成が母の実家を頼り、浪岡北畠の祖となる。
”浪岡御所”と呼ばれるほど尊敬を集め、子の顕信の子守親も”川原御所”と称され本家と共に大いに栄えた。
※伊勢北畠氏は親房の三男顕能を祖としている。
永禄5年(1562)川原御所の北畠具信(とものぶ)が浪岡城を訪れ突然9代当主の具運を斬り殺してしまった。
このことで具信は具運の家臣に討ち取られ、川原御所一族も滅ぼされてしまった。
具運の跡を継いだ顕村はわずか5歳であり、家中が治まらず、また都への貢ぎ物に領民から重い税を取り立てたため地域からの信頼も失うこととなる。
三戸(さんのへ)南部氏の武将大浦(津軽)為信は、反旗を翻し津軽地方を主家から奪い取った兵である。
大浦氏は浪岡城攻略に着手、城下を混乱に陥れた。
城方も抵抗を試みるが奮戦虚しく為信の手に落ち、当主顕村はて自刃、浪岡北畠氏は10代で滅亡した。
浪岡城落城年に関しては、天正6年(1578)説(津軽氏資料)と天正18年(1590)説(南部氏資料)がある。
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photo:ばつまるさん |
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