弘前城 hirosaki-castle 青森県弘前市下白銀町

追手門と城址の碑/天守T/辰巳櫓(左列)追手門から城内を見る/天守U/本丸未申櫓跡(右列)

三の丸追手門
建築は慶長16年(1611)、2代目藩主の津軽信枚(のぶひら)による。
弘前城には、築城当時10棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の5棟が残されている。
弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた二層の櫓門であるが、門の前面に高麗門とうを設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な素木造りとしていることから、城門の中でも古い形式の櫓門といわれる。
天守
弘前城は、津軽を統一した津軽為信が計画し、2代藩主信枚が慶長16年(1611)に完成させた。当初の天守は5層で本丸西南隅に構築されていたが、16年後の寛永4年(1627)に落雷により焼失。
現在の天守は、江戸末期の文化7年(1810)9代藩主の津軽寧親(やすちか)により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。
濠側の東・南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、また1・2層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落しを設けるなど古形式になっている。
江戸時代に建築され、現存する天守としては、東北地方唯一のものである。
本丸未申櫓跡
この場所には築城当時5層の天守閣があったが、寛永4年(1627)に落雷により焼失したので、隅櫓が建てられた。元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、最勝院に保存されている。


別名 高岡城(鷹岡城) 築城年代 慶長16年(1611)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 津軽為信・信枚
遺構 天守・櫓・城門・石垣・掘etc...
復原 ---
国指定 史跡 重文=天守・隅櫓3棟・城門5棟
攻城年月日 2006/3/吉日


【構   え】
西に岩木川、東に土淵川、西から南にかけては急な崖が細長い台地を形成。その崖上に築かれた城。
面積≒49万2千平方メートル(≒14万9千坪)を有し、本丸・二の丸・三の丸・四の丸・北の郭・西の郭からなり、三重の濠と土塁でめぐらされた城郭。

【歴   史】
津軽弘前藩の祖である大浦為信(のちに津軽姓)は、三戸(現:青森県三戸郡三戸町)の南部氏の一族として従属していたが、この支配を嫌って独立に成功。津軽地方一帯を所領とした。
津軽を奪われた南部氏は奪回を図るが、為信は豊臣秀吉に接近。天正18年(1590)の小田原攻めに為信自らが出陣して所領を安堵された。ときの権力者に近づき南部氏が手出しできないようにしたのだ。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦ではわずかな兵を率いて徳川方に参陣。大名としてその地位が認められた。
文禄3年(1594)居城を大浦(現:弘前市/旧:中津軽郡岩木町)から堀越(弘前市内)に移した。ところが手狭であったため、為信の子・信枚が当時は「高岡」と呼ばれていた現在の地に本格的な城郭を築いた。
石高はわずか4万7千石だが、江戸時代になってからも南部氏との確執が続いていたために、備えとして30万石に匹敵するほどの堅城であったという。

photo:SPOOKさん


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