宇都宮城 utsunomiya-castle 栃木県宇都宮市本丸町

本丸広場への入口/清明台櫓1階の天井部/富士見櫓/堀とおほり橋(左列)
清明台櫓/櫓と塀は火除けのため漆喰で塗られている/本丸広場と清明館・歴史展示室/伊賀門跡(右列) 

清明台櫓
本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺で画かれている。広さ3間(5.9M)×3間半(6.9M)と記録されている。櫓のある場所の土塁は、他の部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれている。
富士見櫓
本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺で画かれている。広さ3間(5.9M)×4間半(7.9M)と記録されている。その名の通り、周りに高い建物がなかった江戸時代において、遠く富士山の姿が望めたと考えられる。

復元された本丸の堀は、17世紀前半に造られたと考えられ、古い文献には幅12間(21.8M)と記されている。発掘調査では、堀の最大幅27M、深さは最大7Mあったことが確認されている。


別名 亀ヶ丘城 築城年代 康平6年(1063)
縄張・種別 ---/平城 築城者 藤原(宇都宮)宗円
遺構 空掘・門跡 etc...
復原 櫓2基・土塁・堀
攻城年月日 2007/8/9


【構   え/歴   史】※宇都宮市教育委員会文化課のパンフレットより
宇都宮城は、平安時代後期に築かれたといわれている。鎌倉時代以後は、宇都宮氏の居城であった。宇都宮氏はこの城を本拠地にして、二荒山神社の祭祀を行い、周辺を支配していた。
北朝時代から戦国時代は、宇都宮城とその周辺も度々戦いの舞台となり、戦国時代の終わりには、後北条氏の攻撃によって、城下町が焼かれた。このころの城は、敵の攻撃に備えるため、深い堀と高い土塁を持つ堅固な構えになっていたという。
500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされた。江戸時代になると徳川譜代大名の居城となったが、その中のひとり本多正純は、城と城下町の造り変えを行った。東西・南北とも1KMに近い大きな城となった。最大の特徴は、将軍が日光参詣に行くとき宿泊したということである。将軍の行列はとても人数が多かったので、城下町もたいへんな賑わいとなった。現存する絵図には、本丸に大きな建物が描かれているものがあり、将軍が泊まる御殿だといわれる。
その後、戊辰戦争で建物の大半が焼失し、堀も次第に埋められた。

【釣り天井事件】
宇都宮城主であった本多正純が、日光社参から帰る将軍を、カラクリ仕掛けの天井を作って暗殺しようとしたという事件のこと。もちろん創作話。正純が突然城を取り上げられ、出羽(秋田県)へ配流されたことからこのような話になったらしい。

photo:あられ


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