館山城 tateyama-castle |
千葉県館山市館山城山 |
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館山港より標高75mの城山を臨む/登り口・園内には日本庭園や万葉の径あり/主郭の西側にある腰曲輪(左列)
天守は城郭研究家藤岡通夫工学博士の考証により復元/灯台型城址の碑の向こうは「海上自衛隊館山航空基地」
/館山市内を臨む(右列) |
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別名 |
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館山陣屋・根古屋城 |
築城年代 |
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天正18年(1590) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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里見義康 |
遺構 |
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空堀・大手口の土塁・桝形・井戸 |
復原 |
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復元=天守 |
国指定 |
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攻城年月日 |
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2003/春・2004/9/5 |
【歴 史】
天正18年(1590)安房国の名家、里見氏9代の里見義康が築城。
全盛期には房総3国57万石の領土があったが、同年豊臣秀吉による小田原攻めに遅れ、安房一国9万2千石に減封される。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で戦功があり加増される。
慶長19年、10代城主忠義は大久保長安事件に連座、及び、城郭を無断拡張したとの罪で改易、館山城は廃城となった。
寛政3年、稲葉正武(山城淀藩分家)が城跡の脇に陣屋を築く。
4代目の稲葉正巳は若年寄・外国御用取扱職・陸軍奉行・海軍総裁とうをつとめた。
【資 料】
-八遺臣の墓-
城山を南側へ下ったところに「八遺臣の墓」がある。
大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取り潰しの策を回らせた。
この策により改易を命ぜられ伯耆国(鳥取県)の倉吉に移された房総里見氏10代忠義は、憂悶のうちに元和8年(1622)29才で倉吉在の堀村に卒した。
この悲運の主君に従って殉死した8人の家臣は、その氏名は不祥であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは、何を暗示しているのであろうか。
慈恩院に伝えられた話しによると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君忠義と8人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく漁師の姿に身をやつして、遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麓に埋めたのが、この墓であるという。
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photo:あられ |
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