武州三角原陣屋
bushu-sankakubara-jinya
埼玉県鶴ヶ島市高倉 1133-2



攻城年月日
2003/9/20


【歴   史】
川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれた。
元々農業に従事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民からは厚い信頼を受けていた。
抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導いた。
この三角原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところ。

享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められたが、これは多数の新田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180L)の増収を得ようとする計画だった。
開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にもみまわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったという。
幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情にあった新田開発事業を推進させた。

平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500hr)の新田がみごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任じられた。
その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となったが、同年6月74歳で生涯を終えた。
ここにある小祠(写真中央)は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追悼して建てたもので、正面に川崎大明神と刻み込まれている。

陣屋は平右衛門が美濃に任地替えになったため建物は取り払われたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものだ。
平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部は重なりながらも、西側(写真手前)を走る日光街道杉並木と平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大きさがあることがわかった。

写真右の桜並木は、陣屋の前を通っている街道。
古くは「日光街道」と呼ばれ、かつて日光東照宮を警備するため、幕府が江戸の外郭警備のために置いた武士集団・八王子千人同心が往来した道で、昔から交通の要所とされてきた。
街道沿いの杉や松は江戸時代(17世紀後半)に植えられたものであったが、戦後の大型台風とうで倒れ、往時の面影が薄れていくのを惜しんだ篤志家の三ツ木氏が私費を投じて桜の苗を植えつけた。

photo:あられ


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