大庭城 ooba-castle |
神奈川県藤沢市大庭 |
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空堀
夏の写真で、草木が多く暗くて分かりにくいが非常に深い空堀である。
この先で大きくクランク状に曲がっている。両脇は高い土塁が構築されて いる。城は、一の丸、二の丸、三の丸に主要構造が深い土塁によって分けられて
おり、近世の城に引き継がれる構造をもっていた。
古井戸跡
城域最南部にある。
コンクリートでふたがされているが、金網の上から覗くと井戸の周りは古い石で囲われており、当時から大庭城の水源として機能したものと思われる。しかし、たて看板などの説明は全く
なし。(笑い)
土塁
1:暗くて手ぶれしてしまったけど、柵の上にそびえる土手は土塁である。城址最南部に残されているこの土塁は、人の背丈よりはるかに高い。
2:これも土塁の写真。こちらの写真のほうが分かりやすいが、高さは
それほど高くはない。
建物の柱跡
目的不明の建物の柱跡。
実際の発掘で柱跡が出土したのは数メートルほど 南側だそうで、現在は埋め戻されている。この柱跡は発掘調査の結果を石柱で表現している。場所は一の丸付近にあることから、侍詰め所のような役割だったのかも
しれない。
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別名 |
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築城年代 |
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室町時代 |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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太田道灌 |
遺構 |
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郭・井戸・空堀・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2003/10/12 |
【歴 史】
古くは平安時代の終盤の源平合戦の頃、平氏方の大庭景親の居館が近くにあったといわれている。
また、城郭北部からは縄文、弥生期の住居跡も発掘されており、古くからこの近辺の人々の生活の中心地だったと考えられている。
大庭城が史実に登場するのは15世紀の中ごろ、扇ヶ谷上杉の家宰であった太田道灌が建設したときから始まる。
その地理的条件(東海道に近く、交通の便がよい。
二つの河川にはさまれた扇状地であり、二つの川は自然の堀の役割を果たしている。
北は尾根で北部の 丘陵地とつながっているなど)から、最初の建設者が太田道灌であることはおそらく間違いないと思う。なにしろ、道灌好みの地形である。
現在残されいてる遺構には、北条氏の特徴である深くてクランク状に曲がった空堀や、背丈よりも高い土塁などがある。
また、西方8kmほど離れた地には西相模の最大の拠点玉縄城があり、この城の建設時に三浦氏や千葉氏、里見氏のちょっかいを排除するためにも、この城は伊勢新九郎が攻め落とした後、北条の城として重要な役割を持っていたと考えられる。しかし、この城に関する文献はほとんどなく、村岡城と共に謎の多い城だ。
現在の大庭城は北部は住宅地として開削され影も形もない。 しかし、城域南部は大庭城公園として保存されている。
この公園の良いところは、いたるところに灰皿が用意されている こと。(大笑い)やっぱり、高額納税者は大事にしないとね。(爆)
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photo:荒賀源外さん |
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