難波田城 nanbada-castle 埼玉県富士見市下南畑 568-1

城址概要
元々このお城、三重の堀を持つ平城で、戦国時代、現在の富士見市南畑に本拠を持つ難波田氏の中心人物 ・難波田善銀が活躍したそうです。
園内(≒17240u)は城跡ゾーンと古民家ゾーン に分かれ、真ん中に難波田城資料館があり、とても充実した内容と なっておりました。
城址公園内の移築民家
旧鈴木家表門の「長屋門」。
門内は農具とうを展示。

水堀にかかる復元木橋
東門・模擬冠木門形式
旧鈴木家表門


別名 --- 築城年代 戦国時代
縄張・種別 ---/平城(中世の館) 築城者 難波田善銀
遺構 堀・土塁・曲輪跡
復原 模擬=大手門
国指定 ---
攻城年月日 ---


【構   え】
難波田城は荒川低地の標高≒6mの自然堤防上に築かれている。
戦国時代に3重の堀をめぐらした大規模な平城へと改修された。
このような平城(中世の館)のはじまりは、中世の荘園守護館に遡る。
そもそも守護館は公領制のもとに置かれた諸職(しょしき)の住居 であり役所でもあって、ここを拠点として守護職にあるものは荘園 を経営していたわけで、当然近隣は従う武士や農民たちの生活の場であった。
南北朝になり戦乱が絶えなくなると、守護館の近くに戦闘用の山城 を設け、群雄割拠の頃は山城全盛期。
これが戦国末期に戦の心配がなくなるとまた平城へと戻った。
中世の平城と戦国末期からの平城との相違は、前者が自然の河川や沼や簡単な堀や土塁で防御施設を作ったのに対し、後者は土木技術が進んで城郭の規模も大きく、堀で幾重にも囲んだり美的にこだわったりしたことだと思う。
時代背景や政治の構造によって同じ「城」でもちゃんと目的にあっ たように建築されているようだ。

【歴   史/合   戦】
-金子高範と難波田善銀-

難波田氏の先祖は平安時代末期に成立した武士団『武蔵七党』の一つ村山党に属した金子高範(かねこたかのり) であります。
この金子さん、鎌倉幕府側で【承久の乱】に参戦、活躍しつつも討ち死にしてしまいました。
その恩賞として難波田の地がその子孫に与えられた、そうです。
その縄張りの地図をよく見ると、村山党は北は現在の高坂橋の手前の勝呂(須黒)・川越の仙波・富士見市の南畑(難波田)・大井・飯能の金子・所沢の宮寺・山口・荒幡・久米(華帯畄の現住所!)・そして東村山の村山、となっております。
-羽祢倉合戦-
南北朝時代になると、室町幕府・足利尊氏VS弟・直義の勢力争い【観応の擾乱】が起こります。
結果は尊氏の勝ち!この時、武蔵国では、鬼窪(埼玉県白岡町)の高麗経澄(尊氏方)は府中に向かう途中、羽祢倉橋(埼玉県志木市宗岡)付近で難波田九郎三郎(直義方)の軍勢と合戦をし、九郎三郎はあえなく討ち取られてしまいます。
なんだか ご先祖様に続き、弱いですなぁ。
当然難波田氏の領地は没収されました。
羽祢倉は現在もそうですが、荒川を渡る要所だったそうです。
-扇谷上杉氏VS北条氏-
難波田善銀 は扇谷上杉氏の重臣(大将)として一連の戦いの中心人物として活躍したそうです。
江戸・品川に出陣し、妙国寺に制札(893屋さんの観葉植物みたいなもの?)を発給 したり、深大寺城を修復したり、松山城の城代をつとめ、報恩寺(越生町)に所領を 寄進したりしています。
でも最後は天文15年の河越夜戦で寝込みを襲われ、やっぱり討ち死にしてしまいました。
なんとまぁ、討ち死にの家系だこと(涙)。
かくして 難波田氏一族は北条氏の家臣に組み込まれ、お城は北条氏の持城となり、天正18年(1590)の同氏の滅亡と共に廃城となりました。

photo:華帯畄さん


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