河村城 kawamura-castle 神奈川県足柄上郡山北町山北

本丸郭への登リ口/畝掘りが夏草に覆われて見えんゾ見えんゾ/本丸郭の全景/畝堀を上から見たところ(左列)
満開のアジサイ/本丸郭西側の城址の碑/東側の郭は発掘調査中(右列)


別名 --- 築城年代 平安時代末期
縄張・種別 ---/山城 築城者 河村秀高
遺構 郭跡・畝掘 etc...
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2006/7/8


【構   え】
この地は城山(標高225M)と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川により周辺山地と分断された自然の要害。周辺は、相模国(静岡県)・甲斐国(山梨県)・駿河国(静岡県)の三国の国境に近く、城や砦が多く築かれていた。
河村城は急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形が特徴で、大きく3つの尾根を堀切によって郭を形成している。(最大は幅30M・深さ15Mもある)

【歴   史】
平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の二男河村秀高により築かれたと伝えられる。
秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に味方したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉で行なわれた流鏑馬の妙技により、再び河村郷に復帰することができたと「吾妻鏡」に記されている。
建武の中興(1334)・南北朝時代と河村氏は松田城の松田氏とともに南朝側の新田氏に与力し活躍するも、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城にろう城した。正平7−8年(1352-53)、畠山国清を主将とする尊氏軍と戦火を交えるも、南原の戦いで破れ、新田・脇屋らは中川城(同町中川)を経て甲州に逃れたと「太平記」にある。南原の戦い後、城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となる。その後相模に進出してきた小田原北条氏の城となった。
戦国時代には、小田原北条氏は武田氏との攻防から、近隣の城同様支城として河村城を重視し、元亀年間には修築を行なう。
北条氏と武田氏との間で激しい抗争を繰り返したが、武田氏が織田信長に滅ぼされると、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐にあい河村城も落城。廃城となったと思われる。

photo:荒賀源外さん


Back
Home