別名 |
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太や城 |
築城年代 |
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治承年間(1177-80) |
縄張・種別 |
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---/平城 |
築城者 |
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加治家季 |
遺構 |
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土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2005/8/9 |
【構 え/歴 史】
城址は神流川に臨む崖上に残る平城で、西と北に清水が流れ、東に小溝があり東から南へは平らな地続きである。現在土塁が3ヶ所残っており、上野(群馬県)と武蔵(埼玉県)の国境に位置する要害の地であった。
平安時代末期の治承年間(1177-80)に武蔵七党の一党である「丹党」から出た武蔵国高麗郡加治荘(現:埼玉県飯能市)の豪族加治一族の加治家季が築城。元弘年間(1331-33)には新田義貞が修築して、武将の畑時能を城主にしたと伝えられる。室町中期の寛正年間(1460-65)に斉藤実盛の子孫・盛光の居城となり、その曽孫定利のとき天正10年(1582)6月滝川一益、北条氏邦による神流川合戦の際、兵火により焼失、北条方であった斉藤氏は没落した。
その後、徳川家康の関東入封にともない、川窪氏の所領となり陣屋がおかれたという。川窪氏は元禄元年(1698)丹波国(兵庫県)に転封となり陣屋も廃された。
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