波多野城 hatano-castle 神奈川県秦野市寺山

城址の碑(左) 源実朝の御首塚(右)


攻城年月日
2005/2/5


【歴   史】
この地には平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した波多野氏の城址があったという。
波多野氏の祖先は藤原秀郷の子孫で下野国周辺に勢力を誇った一族のひとり佐伯経範といい、母方の姓を称し、源氏の家臣であった「波多野」を開発し所領としたことから姓とした。平安時代に起こった奥州安倍氏の乱では源頼義(鎌倉鶴岡八幡宮を創建したひと)・義家親子に従い、黄海(岩手県)の戦いで討死にした。また5代目の子孫義通は保元・平治の乱では源頼朝に従い大活躍をしたという。
頼朝が挙兵した治承4年(1180)当時は義常が当主であったが参戦を拒み、平氏側の大庭景親に組して頼朝と戦い、松田の館を攻められ自害した。その後、叔父の義景が家督を継ぎ、建保元年(1213)和田義盛の乱で義景の子盛通が和田方に就き滅んでしまったため義常の弟忠綱にその実権が移ったと考えらる。忠綱は後に将軍源実朝の菩提を弔うため東田原というところに金剛寺を開創した。
この城は義景の居館だったようだ。

【資   料】
-源実朝の御首塚-

住所:秦野市東田原_城址より徒歩10分
鎌倉幕府の開祖源頼朝の子であり3代征夷大将軍源実朝の御首塚。歌人としても有名で、私家集に「金塊和歌集」がある。
承永元年(1219)正月27日、征夷大将軍源実朝が右大臣拝賀の帰り、鎌倉鶴岡八幡宮本殿下石段の大銀杏の隠れていた2代将軍頼家の子で甥の別当公暁(kugyou)に暗殺された。その御首は行方不明になったが、三浦義村の家臣、武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったと伝えられる。
武氏は当時、三浦郡武村(現:横須賀市武山)の領主で、後に波多野城のある寺山に移り住んだという。

photo:荒賀源外さん


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