別名 |
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築城年代 |
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文明8年(1476) |
縄張・種別 |
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---/平山城(崖城) |
築城者 |
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長尾景春 |
遺構 |
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曲輪・石垣・土塁・堀 etc |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2003/12/30 |
【構 え】
荒川と南を流れる支流・深沢川の合流点に築かれた天然の要害である。
城址は、南西・旧折原村を大手口とし、東・旧鉢形村を搦手としている。
本丸・二の丸・三の丸・秩父曲輪・諏訪曲輪とうがあり、西南には侍屋敷や城下町が形成されていた。
※昭和7年に城域≒240,000uが国の史跡に指定。
【歴 史】
文明8年(1476)、関東管領・山内上杉の家宰・長尾景信の嫡子・景春が築城。
上杉家の持ち城として大いに栄え、室町時代には上杉家の家老でこの地方の豪族である藤田康邦が北条氏康の三男・氏邦を娘婿として鉢形城主に迎え、小田原の北条氏と連携し北武蔵から上野国(群馬県)にかけての拠点とした。
康邦は同じく寄居の用土(ようど)城を築き居城としていたが、弘治元年(1555)に没した。
すでに康邦が用土城へ移った時点で姓を「北条」に戻していた氏邦はしだいに北条色を強め、勝手な振る舞いが目立つようになる。
天正6年(1578)康邦の跡を継ぐべき藤田重連(しげつら)を毒殺、重連の弟・信吉は身の危険を感じ越後の上杉景勝のもとに身を寄せた。北条氏による他家乗っ取りが成功したのだ。
天正18年の豊臣秀吉による小田原攻めで開かれた「小田原評定」では、城外へ打って出て戦を挑むことを主張した氏邦だったが受け入れられず、それぞれの城に立てこもることに決まり鉢形城で豊臣軍と戦うことになる。
同年5月、前田利家・上杉景勝軍2万が押し寄せる中、攻め手には信吉の姿もあったという。
堅固な鉢形城に豊臣方の援軍が加わり5万の大軍に囲まれ、氏邦は3ヶ月の攻防の後城兵の助命を願い出て降伏した。
まもなく廃城。
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