別名 |
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萱方城 |
築城年代 |
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戦国時代 |
縄張・種別 |
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複郭式/平城 |
築城者 |
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浅羽下総守 |
遺構 |
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復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/6/1 |
【構 え】
遺構は残っていないが団地造成前の地籍図や現存する絵図から推測すると、ほぼ長方形の主郭を中心として、いくつかの曲輪があり、主郭の南側には出張部が設けられ、虎口の守りを固めていたという。
写真の案内板(右側の柳の木の下)辺りが城の主郭にあたると考えられる。
昭和58年の発掘調査では、溝・カワラケ・常滑焼きの甕(かめ)とうが出土し、地中には遺構が残っているであろうことが確認された。
【歴 史】
平安末期から鎌倉時代に勢力のあった武蔵七党のひとつで、埼玉県北部を拠点とした児玉党一族・入西資行の子・行成を祖とする浅羽氏により築城された。
天正18年(1590)豊臣秀吉が後北条氏を攻めたとき、北条方に属していたこの城も小田原城と同時期に落城したと伝えられるが事実は不明。
浅羽氏の活躍を示すような資料がまったくないことから詳しいことは解っていない。
徳治2年(1307)同市北浅羽の万福寺に行成を供養するための板石塔婆が建てられている。
※「万福寺」は折りを見て取材に行ってまいります。
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