赤塚城 akatsuka-castle 東京都板橋区赤塚



別名 --- 築城年代 康正2年(1456)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 千葉自胤(よりたね)
遺構 土塁・空堀
復原 ---
攻城年月日 2003/9/5


【構   え】
荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷にはさまれた台地上に位置する。
室町時代の城址で、現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山とも呼ばれ、当時は一の郭・二の郭・三の郭で構成されていたらしいが詳細不明。
康正2年(1456)千葉自胤が入城したと伝えられ、土塁・空堀跡が残る。
北・東・西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池はそれらの谷から出る水を湛えている。
城址の北側に開ける高島平は、江戸時代に「徳丸ヶ原」と呼ばれた原野であり、ここで天保12年(1841)高島秋帆(しゅうはん)が様式の砲術訓練を行ったことが名の由来となっている。
明治以降は開墾され、徳丸田圃と呼ばれる一面の水田地帯となり、溜池の水が灌漑用水として使われた。

【歴   史】
下総国(千葉県北部)の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉氏と争った「享徳の大乱」に巻き込まれ、一族で骨肉の争いを繰り広げた。
康正2年(1456)成氏方の軍勢に攻め込まれた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉氏の助けを受け、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(台東区)へ入城。
寛正4年(1468)兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転々とし、武蔵国(和光市・さいたま市・足立区とう)に根ざし”武蔵千葉氏”の基盤を築いた。
その後、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配強化に力を注ぎ、北条氏が武蔵へ進出してくると従い、豊臣秀吉に滅ぼされるまでこの地を拠点に活躍した。

photo:あられ


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