新発田城 shibata-castle 新潟県新発田市大手町

海鼠壁の二の丸隅櫓/足軽長屋には天保13年の棟札あり/融雪のための散水(左列)
大手門二階櫓/足軽長屋/武家屋敷(右列)


別名 菖蒲城・浮舟城 築城年代 室町時代
縄張・種別 ---/平城 築城者 新発田氏
遺構 表門・二の丸隅櫓・石垣・堀
復原 ---
国指定 重文=表門・二の丸隅櫓
攻城年月日 2003/3/8


【歴   史】
戦国時代、佐々木守綱の氏族である新発田氏が創築、数代に亘り居城とする。
阿賀北衆(阿賀野川下流北部に勢力を持つ豪族)と呼ばれる新発田氏や本庄氏とうは上杉氏の支配に不満を持ち、上杉謙信は度々反乱に苦しめられていた。
新発田家重は上杉家の家督争いをめぐる御館(おだて)の乱で景勝に味方をし、多大な功績があったにもかかわらず厚遇されず新発田城を拠点に景勝に反旗を翻す。
天正15年(1587)10月、景勝に攻められ落城となり、家重及び一族は滅亡した。
慶長3年(1598)景勝は豊臣秀吉に新領地の会津若松へ移封を命ぜられ、新発田城には秀吉の家臣溝口秀勝が6万石で入封する。
慶長5年、関ヶ原合戦で秀勝は徳川方に忠誠を誓ったので、上杉家の越後回復を願う遺民による一揆に苦しめられることとなるが、鎮圧に成功したので所領は安堵された。
ここでタイムワープ!
慶應4年(1868)戊辰戦争の勃発!
越後国は新政府軍Vs奥羽越列藩同盟軍の激戦が展開され、新発田藩は新政府軍に参加したかったのだが、同盟軍の執拗な威しに屈してしまう。
米沢藩(上杉軍)も同盟軍にいて、≒1000名の軍勢を越後に派遣しているのをさいわいに、このドサクサに紛れ旧領越後国乗っ取りを画策していたから溝口軍としてはたまったものではない!!!
思慮の末、海路より新政府軍を領内へ迎え入れ越後から上杉軍を追い払う作戦に出た。
新発田藩が新政府軍に寝返ったことにより同盟軍は一掃された。
精鋭上杉軍を相手に2度も撃退に成功!
武田信玄が聞いたらさぞかしうらやましと思うことだろう。

本丸と二の丸跡の大部分は陸上自衛隊新発田駐屯地。
本丸跡に大手門と隅櫓(二の丸より移築)、本丸石塁・水堀・帯曲輪(土橋門付近)の土塁が現存。
下屋敷(清水谷御殿)・回遊式庭園、旧足軽長屋が遺構として残る。

photo:SPOOKさん


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