名古屋城 nagoya-castle 愛知県名古屋市中区本丸

「連結式天守」大天守と小天守が橋台で連結されている
/本丸南(表)二之門/旧二の丸東鉄門二之門
/不明御門は天守閣脇から御深井丸へ抜ける門
/「清正石」縦2m・横6・奥行きは測定不可能(左列)

旧榎多(enokida)門跡の正門は高さ12m・二階建て/本丸辰巳(東南)隅櫓/御深井丸戌亥(西北)隅櫓
/本丸未申(西南)隅櫓(右)/「石垣の刻紋」他と区別するためにつけた大名家の目印(右列)

鯱鉾
創建時サイズ 雄_北側8尺6寸5分(2.62m)/雌_南側8尺3寸(2.51m)
創建時費用 慶長大判1940枚(小判では17975両)
創建時製造工程 桧(ひのき)の心木に黒漆を塗る→鉛の板を張りつける→その上を銅板で覆う→その上に20金の金箔(純度は84%)を貼りつける。
現在サイズ 雄_北側(2.675m)/雌_南側(2.515m)
現在費用 4800万円_昭和34年復元
現在製造工程 青銅で本体を作る→厚さ1mmの銀メッキした銅板を貼りつける→厚さ0.15mmの18金(金75%・銀25%)の金箔で覆う。
普通の城鯱は3〜4尺(0.9m〜1.2m)/海のギャング本物の鯱は雄_9m雌_7m
本丸南(表)二之門
本丸の入口にあり、本丸桝形の外門にあたる門で構造は高麗門。門柱と冠木(かぶらぎ)は鉄板張り。木割が太く堅固なつくりで、土壁には鉄砲狭間(丸狭間)が設けられている。
本丸辰巳(東南)隅櫓
二重三階...もとは多聞櫓が両側に接続していた。申未(西南)櫓とは二階出窓の形が異なる。出窓は隠し石落としで上重屋根は二の丸御殿側に唐破風をつけて豪華にした。
旧二の丸東鉄門二之門
本丸東二之門跡に二の丸東鉄門二之門が移築。城内の側の控柱に屋根をのせたもので、高麗門ともゆう。門内桝形に見えるのが「清正石」。
御深井丸戌亥(西北)隅櫓
三階櫓とも称した三重三階の櫓で、清洲城の小天守を移築したとも伝えられる。隅櫓としては城内最大規模を誇る。
本丸未申(西南)隅櫓
二重三階...他の城の三重天守級の大きさを誇る。もと多聞櫓が接続していた。明治24年の大地震で石垣は崩れたが復旧。
清正石
肥後の太守加藤清正は天守閣の石塁構築係で、巨石の運搬には木遣(きやり)歌をうたわせ、人足に景気をつけさせたと伝えられる。なぜか、清正石のあるところは黒田長政の施行場所なのだ。


別名 金鯱(きんこ)城 築城年代 慶長14年(1609)
縄張・種別 輪郭式/平城 築城者 徳川家康
遺構 隅櫓3・表二の門・二の丸庭園・角馬出・石垣・堀 etc
復原 大天守・小天守・旧離宮表門
国指定 特史 重文=西南隅櫓・東南隅櫓・西北隅櫓・表二の門
攻城年月日 ---


【歴   史】
古く「那古野」とゆわれ、室町時代には幕府管領の斯波氏の支配下だったが、応仁の乱で衰えた。
駿府の守護今川義元が侵攻、尾張に進出してこの地を収め、名古屋城二の丸付近に「柳丸」という城を築いた。織田信秀は策を用いて義元からこの地を奪い取る。
天文20年(1582)信長が跡を継ぐが、清洲に居城を移したので廃城。
那古野→那古屋→名護屋→明治3年(1870)「名古屋」と名前が変わった。
慶長14年(1609)徳川家康は9男の義直を国主とするため、加藤清正を総大将に主に西国大名20名に助役を申しつけ「名護屋城築城令」を発した。19年に、5層5階地下1階の本丸御殿とうが完成。典型的な平城で、二の丸、御深井丸、西の丸からなり、三の丸を除いて石塁、堀をめぐらす。
慶長17年(1612)金の鯱鉾が天守閣屋根に輝く。創築時の記録によると、北側の雄が8尺5寸(257cm)、南側の雌が8尺3寸(251cm)。鱗が1枚1枚貼り付けてあった。
昭和20年、先の大戦のとき空襲で城が焼けた。焼け跡から塊を拾い集め鋳直し、二の丸庭園四阿屋内に茶釜ができている。
石垣は当時のままで、刻まれた担当大名家の家紋、符号とうが興味深い。

photo:シリウスさん


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