松本城 matsumoto-castle 長野県松本市丸の内

左より月見櫓は吹き放し高欄がめぐる特殊な造り・巽小天守・大天守・乾小天守
西南方向より乾小天守と大天守

大天守
最上部は他の城に比べるとデカイ!
創建時の姿ではないらしく解体修理の結果、最上階は外部望楼式、四方一間ずつ小さくなっており、周囲に高欄がめぐっていたという。


別名 鴉城・深志城 築城年代 永正元年(1504)
縄張・種別 梯郭式+輪郭式/平城 築城者 島立右近貞永
遺構 大天守・小天守・月見櫓・御金蔵・堀・石垣
復原 本丸黒門・埋の橋
国指定 国宝
攻城年月日 ---


【構   え】
国宝5層6階の大天守に3層の乾小天守を2層、渡櫓で北に結び、巽小天守と月見櫓を東につながる4基天守群が「L字」形で構成される。

【歴   史】
永正元年(1504)、古来から北陸道、中仙道、越後路に通じる交通の要地として重要視された平安時代には国府が置かれ、鎌倉、室町時代を通じ豪族の松本、坂西(ばんざい)氏なのどの居城があったところに、小笠原貞朝の臣島立右近貞永が入り、「深志城」と称した。
天文19年(1550)小笠原長時のとき、安曇(あずみ)、筑摩(ちくま)の諸豪と連合し、武田信玄と戦い、大敗して逃亡した。
天正10年(1582)、越後の上杉、飛騨の竹中氏の備えとして武田信玄の城になっていたが、勝頼の代になり武田家が滅びると織田の城代が置かれていたが、本能寺に信長が倒れると上杉景勝が城を占拠したが、つねづね復帰を考えていた小笠原貞慶に攻められ撤退。貞慶は貞時の第3子。深志城は松本城と名前を改めた。
その後、石川和数正、小笠原、戸田、松平、堀田、水野とうめまぐるしく城主が変わり明治維新を迎えた。
現在の城は石川数正と光長父子が築いたものである。

明治になり二の丸に建てられた裁判所は、日本最古の司法建築として城下に移され、司法博物館となっている。

photo:荒賀源外さん(上)
photo:芯@元歩僧屋さん(下)


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