金ヶ崎城 kanagasaki-castle 福井県敦賀市金ヶ崎町

堅固さを記す「太平記」の記述
彼城(金ヶ崎)のありさま、三方は海によって岸高く巌(iwao)滑らかなり。巽(東南)の方に当たれる山一つ、城より少し高うして、寄せ手城中を目の下に見下ろすといえども、岸絶え地僻りにして、近づき寄りぬれば、城郭一片の雲の上に峙だち、遠くして射れば、その矢、万仞の谷の底に落つ。


城址の碑/全景/曲輪跡(左列)
月見御殿/一の城戸・堀切(右列)


別名 敦賀城 築城年代 ---
縄張・種別 ---/山城 築城者 ---
遺構 曲輪跡・堀切
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2006/7/29


【歴   史】
築城年代、築城者ともに不明。
建武3年(1336)10月中旬、新田義貞は後醍醐天皇の皇子恒良、尊良に2親王を奉じて北国へ走った。新田軍は厳しい寒波に四苦八苦しながら近江から越前へ通じる木ノ芽峠を越え、ようやく敦賀に到着。気比神社の大宮司気比氏春に迎えられ、敦賀湾に突出した岬の上に位置する金ヶ崎城に立てこもった。
足利方はこの動きに対して、越前守護の斯波高経とその将・高師泰が、大軍(6万ともいう)をもって城を包囲した。堅固を誇る金ヶ崎城だが、やがてろう城軍の兵糧がつきてしまった。秘蔵の名馬までも食べ尽くしたところで、いよいよ敵方に食糧が尽きたことを知られ、3月2日より総攻撃にあった。3月6日ついに城は陥落。尊良親王や義貞の嫡子義顕ら300名が自殺、恒良親王は捕らわれの身となり京へ送られた。
この後、義貞は加賀の武士たちを糾合して勢力を盛り返すが、暦応元年(1338)閏7月、越前藤島の戦で戦死。
戦国時代は朝倉氏の属城となっていたが、元亀元年(1570)織田信長に攻撃された。
天正3年(1575)信長から敦賀郡を与えられた武藤舜秀が花城山城に拠り、その後蜂屋頼隆が敦賀城を築き移ったので、金ヶ崎城は廃城となった。

photo:ばつまるさん


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