別名 |
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佐保城 |
築城年代 |
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建久年間(1185-99) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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佐保時綱 |
遺構 |
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曲輪跡・移築城門・掘 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2006/6/4 |
【歴 史】
鎌倉時代に近江守護となった佐々木定綱の6男・佐保時綱が築いた。
戦国時代後期には湖南の佐々木六角氏、湖北の浅井氏が強い勢力をもっており、この佐和山城をめぐって激しい攻防を繰り返した。
寛正から応仁年間(1460-69)にかけて六角氏の武将である小川左近太夫が在城していたが、浅井氏の攻撃を受けて落城すると、浅井氏の家臣磯野員吉(kazuyoshi)・員昌父子が城代として入城。元亀元年(1570)姉川の合戦で浅井氏が織田軍の敗れると、員昌は戦場より急いで佐和山城に帰り籠城。織田軍の重臣丹羽長秀に説得され8ヶ月後に開城。員昌は城から退去した。
天正10年(1582)信長が本能寺に倒れると羽柴秀吉が後継者となり、翌年掘秀政を入城させたが、’85年越前北ノ庄に移封され、坂本城の堀尾吉晴が封じられた。’90吉晴が浜松城へ移ると石田三成が入城した。三成は豊臣政権の奉行として、伏見や大坂に詰めていたので、領内の統治にあたっていたのは父正継であった。
慶長5年(1600)三成と徳川家康の間で「関ヶ原合戦」が起こり、三成は敗れて敗走。のちに捉えられ処刑される。佐和山城には徳川方の軍勢が押し寄せ、激戦の末落城した。
翌年、井伊直正が入城したがすでに山城では城下の経営に不便なことから彦根城を新たに築いた。このとき佐和山城の建物は取り壊され、彦根城の資材として使われたという。
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