篠山城 sasayama-castle 兵庫県多紀郡篠山町北新町

天守基壇
本丸東南隅にあり、天守閣が築かれる予定であったが、徳川家康の命令で中止となった。
全景・大書院(右寄りの屋根)
復元された建物は、平屋で面積739.33u、棟高は12.88メートル。
屋根は入母屋造り「こけら葺き」。
城内の建物は廃城で取り壊され、残った大書院は昭和19年焼失したが、2000年4月に復元された。
城郭図
笹山の小丘を利用して、天守曲輪(現在の本丸)、本丸(現在の二の丸)を梯郭式に、二の丸(現三の丸)で囲む典型的な方形の平山城。


別名 桐ヶ(きりが)城 築城年代 慶長14年(1609)
縄張・種別 梯郭+輪郭式/平山城 築城者 徳川家康
遺構 天守台・馬出・石垣・堀
復原 史跡
国指定 ---
攻城年月日 2002/10


【歴   史】
丹波を支配した波多野氏の八上(やかみ)城が前身である。
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の合戦後、徳川家康の命により豊臣家の大阪城と、かつての豊臣恩顧の大名に睨みを効かせるため、泰平維持の目的で築城された。いわゆる「天下普請」(江戸・駿府・名古屋・二条・大坂の諸城と同様)いわれ、家康の直接命令だ。
慶長13年(1608)松平康重(家康の実子)が常陸国笠間城から中世の山城である八上城に封じられ、直ちに新しい城の候補地として笹山の地が選ばれ、翌14年池田輝政を普請奉行に、藤堂高虎を縄張り奉行に任命し、助役として山陰・山陽・南海の3道15ヶ国、20の大名家が参加して大々的に築城された。
初代城主の松平康重は大坂の陣で戦功をあげ、和泉国岸和田城へ栄転。
松平(藤井氏)2代・松平(形原(かたのはら)氏)5代・青山氏と継がれ、青山氏第6代目で明治維新を迎え廃藩となった。
最終石高は6万石であった。

photo:にゃごりんさん


Back
Home