出石城 izushi-castle 兵庫県出石郡出石町内町

木造総塗籠桃山様式の隅櫓は本丸跡の東西に復興された(上) 城址の碑(左)
6代仙石越前守政辰の具足・色々威二枚胴具足(左下)
仙石氏の代表的な紋「永楽通宝」・丸に「無」の旗印(右下)

※出石町立史料館
/住所:兵庫県出石郡出石町宵田78


別名 有子山(ありこやま)城 築城年代 天正2年(1574)
縄張・種別 梯郭式/山城→平山城 築城者 山名祐豊
遺構 石垣・堀・辰鼓櫓 etc
復原 本丸東隅櫓(模擬)・西隅櫓(復興)
国指定 ---
攻城年月日 2003/5/24


【構   え】
山城は、かなりキツイ山道を登ると壮大な石垣が残っている。
平山城は、通常の城郭で”天守曲輪”といわれるところを”稲荷曲輪”と称している。
北に本丸・二の丸、下って梯郭式の三の丸、東には”山里曲輪”、西に”西の曲輪”を配している。
石垣の遺構がすばらしい。

【歴   史】
天正2年(1574)応仁の乱の中心的存在である山名宗全の曾孫にあたる祐豊(すけとよ)が、標高340mの有子山の山頂に築城した。
経緯は、毛利氏が失った土地の回復に乗り出した尼子氏を成敗するため、織田信長と連携、信長に但馬への侵攻を依頼し、永禄12年(1569)山名氏が代々居城している此隅城(出石町)に攻め込まれ、あっけなく落城してしまった。そこで、再起をかけて堅固で大規模な石塁を施した有子城を築いたのだ。
天正5年(1577)再び信長の攻撃があったが守り切った。しかし、同8年に猛攻撃を加えられついに有子城は落城、そして山名氏は滅亡。
文禄4年(1595)、羽柴秀吉の武将である小出吉政(秀吉と同郷人)が播磨龍野城から入封。
慶長5年の関ヶ原合戦で、吉政の父吉秀は長男の吉政を西軍に、次男を東軍に参陣させたので徳川家康から罪を問われなかった。
慶長9年(1604)、吉政の子吉英(よしふさ)が不便な山城を廃し、北側山裾に平山城を築き出石城とした。
その後、宝永3年(1706)に信州上田城より仙石政明が5万8千石で封ぜられたが、後の御家騒動で3万石となる。
仙石氏が幕末まで8代164年間居城した。

photo:メリケンさん


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