有岡城 arioka-castle 兵庫県伊丹市伊丹宮前

碑文/石垣は整然と積まれている/礎石建物跡/総構え範囲図(左列)
現存最古といわれる石垣/石垣には五輪塔や石仏の台座が混じる/井戸跡/城址総構え地図(右列)


別名 伊丹城 築城年代 鎌倉時代末期
縄張・種別 ---/平城 築城者 伊丹氏
遺構 石垣・堀・土塁
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2002/11/21


【構   え】
総構えとは、総曲輪(そうぐるわ)ともいい、城下町全体を囲む曲輪のこと。土塁・石塁・堀とうをめぐらし要所〃に門を設けるもの。規模の大きな城に多い。(小田原城・大坂城・江戸城とう)
発掘調査によると、有岡城は町屋を取り込む様式の規模の大きなものだったという。
町屋部分は外郭にあたり土塁で強化し、寺院や砦を配置。
内郭は土塁に加え堀で囲い侍屋敷を置き、奥の主要部分城の重要な建物が築かれた。

【歴   史】
鎌倉時代末期、この地の豪族伊丹氏の”伊丹城”があった。
南北朝の内乱・畿内の動乱と2度落城し、天正2年に3度目の落城となり、伊丹氏は滅亡した。
天正元年、摂津の旧族池田氏の家臣荒木村重は、織田信長が足利義昭攻めに出陣すると、これを出迎え、織田軍に加わり大活躍!信長に摂津一国を任されるほどになる。当時、信長は石山本願寺と戦の最中で摂津は重要拠点であった。
伊丹城に入城した村重は大修築を行い、伊丹氏の「伊丹城」ではなく、オレの城だゾってことで「有岡城」と改名。天正6年、村重は陣中で突然石山本願寺方に寝返った。いい伝えによると、配下の者が敵に食料を売っているとのウワサが信長の耳に達したと思い、信長の性格を考えると潰されるのは決まったようなことなので、やられる前にやってしまおうと反旗を翻してしまったらしい。
有岡城に立てこもってはみたものの、頼みの石山本願寺からも中国の毛利からの援軍も得られず、孤独の戦いの中に希望を見出せず、数名の家臣と共に尼崎へ脱出。城は見捨てられ、荒木一族は滅亡した。
その後、再度「伊丹城」と名を変えたがまもなく廃城。
町は商業中心となり大いに発展した。

photo:にゃごりんさん


Back
Home