■攻城年月日
2011/6/吉日
ばつまるさん談
説明版では本丸と馬場跡(帯曲輪)と有りますが、本丸跡と馬場跡の間およそ100mの間に平坦地があり、高低差30m程度の本丸と馬場跡で三段となった中間台と言う事もあり、もしかするとここにも二の丸かそれに相当する曲輪があったのかも知れません。
【構 え/歴 史】※案内板参照
鶴ケ城のはじまりは、康和4年(1102)源義家の嫡子・対馬守義親が、隠岐へ流される途中、清嶽山に柵を作り鶴ケ丸と名づけて弟の義忠とともに守った。また、吉野朝のころ(1336-1392)、地頭・古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城したと伝えられている。
室町時代の大永年間(1521-1528)には、小野(古荘)玄蕃守が清嶽山に城を築き、鶴ケ城と名づけ尼子36城の一城として1万5千石を領した。当時は尼子氏が山陰山陽11ヶ国を勢力下に治めていたところである。
元亀3年(1572)、小野氏の家老・広瀬右近之丞が鶴ケ城を守り、よく防戦していたが、銅山師の三島清右衛門の進言を入れた毛利輝元に攻められ落城した。その後、城は田儀城と改められ(知行3千石)、毛利の家人・大鳥馬田が守ったが関ヶ原の役後、堀尾氏に属し、やがて徳川幕府の武家法度により廃城となった。
山頂(標高147.4M)には1.650uあまりの平坦地があり、その下方南東側に660uの馬場跡、その西に弓場跡と思われる平坦地が見られ、大手木戸口は津戸側であったと伝えられている。
|