高松城 takamatsu-castle 香川県高松市玉藻町玉藻公園

着見櫓と水の手門/天守台と玉藻廟(左列) 艮(うしとら)櫓/二の丸と三の丸間を結ぶ蛸橋(右列)

着見櫓と水の手門
着見櫓は17基あった櫓のうちのひとつで、水の手門は藩主が乗船用に使用した。
艮櫓
現在は東南陸側旧太鼓櫓跡に移築されているが当時は海側にあった。


別名 玉藻(たまも)城 築城年代 天正15年(1587)
縄張・種別 ---/水城(海城) 築城者 生駒親正
遺構 石垣・堀・天守台・櫓 etc
復原 太鼓櫓
国指定 重文=北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓・旧東の丸・艮櫓
攻城年月日 2001/7/4


【構   え】
自然の条件を巧みに生かした水城で、本丸・二の丸・三の丸は海水を引き入れた堀で囲み、中央の天守曲輪は水堀の中に孤立させ、廊下橋でつながれ外と通じていた。
堀は三重で両側東西の堀が一番大きく、海に面した防波堤を築き、舟溜りとし水軍を備えるよう設計。
また、水門を設置し海水の出入りを調節したり、城内の全堀が通常満々と水を蓄えるように、浮城の構築がなされていた。
総面積30万平方メートルと壮大。
明治17年、3層5階の天守閣は腐朽が激しく取り壊された。

【歴   史】
天正15年(1587)、生駒親正(ちかまさ)が讃岐一国17万石の太守となり、翌年当時”箆原(のはら)”と呼ばれていた香東川のほとりに築城した。築城の名手、九州中津の黒田如水と伊予宇和島の藤堂高虎が縄張りをしたとも伝えられる。
親正以降4代50年間居城したが、高俊のとき酒色におぼれ国政を怠ったことにより、出羽矢島1万石に移封された。
寛永19年(1642)、讃岐国は2つに分けられ、東讃岐は徳川御三家の水戸徳川頼房の子頼重(光圀の兄)が松平姓を名乗り入城した。
明治に至る230年間の治世は親藩としての格式で大いに栄えた。

photo:ばつまるさん


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