別名 |
|
為松城 |
築城年代 |
|
平安末期 |
縄張・種別 |
|
---/平山城 |
築城者 |
|
一条教房 |
遺構 |
|
大手口=石垣・石塁・土塁・削平地 |
復原 |
|
模擬=天守(幡多郷土資料館) |
国指定 |
|
--- |
攻城年月日 |
|
2002/7/2 |
【構 え】
一条時代中村城は西に四万十川、東に後川を望み、中村平野を一望できる丘陵に築かれた総面積10586u東城、為松城、中の森、御城、今城の5郡の城を統合したもので、平野部を東西に通ずる陸路の要を押え、南北を西部に至る河川により攻防いずれにも臨機応変の戦いにそなえることができた。
【歴 史】
応仁2年(1468)前(さき)の関白一条教房が戦乱を避け土佐へ疎開した。教房は京都の屋敷を失い、一条氏の荘園がある土佐中村への”都落ち”である。
二男の房家は都へ戻ることをあきらめ中村城の守りを固め、城下町も整備し「小京都」の趣を呈するほどで、城山麓の一条氏の居館は「中村御所」と呼ばれた。
その後、朝廷より土佐国司の官位を与えられ、土佐一国を管轄下に置く。
律令時代、基本的に国司は任地において地方統治を行う決まりだが、実際には幕府が任命した守護により統治されたので、一条氏のように国司が地元にある例はひじょうに稀なことだという。
土佐岡豊(おこう)城主長宗我部氏は、一条氏の土佐定住に尽力したり、武士同士のもめごとの調停をしてもらったり助け合ってきた。武将たちはあくまでも”貴族”としての一条氏を歓迎したのであって、支配力を増し戦国大名へと変わることは好まなかった。
家督は房家亡き後と、房冬・房基と続くが徐々に家運は衰退。
そして、5代目当主の兼定は放蕩を繰り返し、忠臣を遠ざけ内部争いが絶えず、天正2年(1574)兼定は豊後(大分県)の大友宗麟のもとへ追放されてしまう。
長宗我部元親は逆に力をつけ土佐の統治を完成しつつあった。
一条氏の内紛を絶好の機会とし、兼定の跡を相続した内政(ただまさ)を手なづけ、あっさり一条氏の領土と中村城をかすめ取ってしまう。用済みの内政は追放、土佐一条氏は5代100年で滅び去った。
中村城はその後、元親の弟である吉良親貞が城代となる。
関ヶ原合戦で長宗我部盛親(元親の子)が浪人すると、戦功により山内一豊の弟康豊が2万石で入封。
元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
|
|