別名 |
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指月(しづき)城 |
築城年代 |
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慶長9年(1604) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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毛利輝元 |
遺構 |
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天守台・家老屋敷・石垣・堀 |
復原 |
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二の丸土塀 |
国指定 |
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史跡=城跡・城下町 重文=旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 |
攻城年月日 |
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2001/4/2 |
【構 え】
三方向を海に囲まれた山上(標高143m)に、本丸・二の丸を配置し詰の丸とし、南側の山麓に本丸・二の丸・三の丸を置き、それぞれの曲輪を仕切る堀に海水を用いた水城である。
橋本川・松本川で城下を囲んだ堅固な城塞都市を形成。
5重5階の天守があった天守台石垣の勾配が美しい。
【歴 史】
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍の総大将となった毛利輝元は、徳川家康により112万石(中国8国)の太守から、周防・長門36万9千石(2国)に減らされ、名城といわれた広島城も失った。
家康が新たに築城を許したところが「萩」だ。当時は山陰の不便な地域であったという。
慶長13年(1608)城が完成すると、跡継ぎ秀就の後見役に養子で長府(長府市)の秀元を据えた。
寛永8年(1631)秀元が突然後見役を降りてしまう。原因は秀就の次女と秀元の嫡男との婚姻で、秀就があまり乗り気ではない態度を見せたを、秀元がこころよく思わなかったようだ。両者は後の朱印状事件・江戸城お手伝い普請事件で徐々に不仲になっていく。その結果、本家はすべての分家の領地支配ができなくなった。
幕末には、攘夷断行、禁門の変、幕府軍による長州征伐の際には薩長軍の中心的役割を担い大活躍。
新政府の城郭破却令を率先して実行、いち早く城を取壊した。
家康に大きく減封された関ヶ原以来260年間の恨みを晴らしたか!
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