亀居城 kamei-castle 広島県大竹市小方2丁目

二の丸/本丸虎口(左列) 本丸石垣/天守台(右列)


攻城年月日
2011/6/吉日


ばつまるさん談
安芸・亀居城は山城にしては石垣が立派ですね。国境を守る支城にしては3〜5万石の本城に匹敵する規模です。
また、本丸天守台からは川を経て岩国(毛利・吉川氏領)が望め、その接近した距離やより内陸側に狭かった当時の海岸線を考えると、亀居城は街道を抑えつつ毛利に備えた城だと言うのが覗えます。


【構   え/歴   史】※説明板より
慶長5年(1600)関が原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は領国八カ国の内、防長二カ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が安芸二カ国を与えられて、その後に入った。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めた。このとき小方の城将には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城をはじめた。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたった。五年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成したが、不幸にして城将の福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を引き入れて入城した。
海に面したこの城の規模は、面積992a、周囲1960Mに及び、山頂に本丸・これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸・妙見丸があって、合計11台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が掘りつくされていたといわれる。なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来する。
かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常にきびしく、完成間もない慶長16年(1611)に取り壊された。

photo:ばつまるさん


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