備中-松山城 b_matsuyama-castle 岡山県高梁市内山下

本丸跡/2重2階の天守/中太鼓の丸跡(左列) 後曲輪二重櫓/三の丸の石垣/大石良雄の腰掛け石(右列)

天守
2重2階の複合式で山上の岩盤の上に置き、入母屋屋根に千鳥破風・唐破風・出格子窓を組み合わせた小さいながらも美しく白壁や黒い腰板とよく調和している。
大石良雄の腰掛け石
元禄7年(1694)時の城主・水谷氏がお家断絶となり、家老の鶴見と城を受け取りに来た赤穂城主・浅野長矩(匠頭ちゃん)の家老・大石良雄が出会った。ふたりとも官名は「内蔵助」なのだ。


別名 臥牛(がぎゅう)城 築城年代 仁治元年(1240)
縄張・種別 ---/山城 築城者 秋庭重信
遺構 天守・櫓・石垣・土塀
復原 ---
国指定 史跡 重文=天守・二重櫓・三の丸平櫓・東土塀
攻城年月日 2003/12/10


【構   え】
高梁(たかはし)川左岸の臥牛山に築かれた山城、現存天守12基のうちで最も標高の高い場所にある。この河川沿いは山陰道と山陽道を結ぶ要所であり、松山城は古くから重要な位置にあった。鎌倉時代にはさらに山深い大松山(臥牛山には北から大松山・天神丸・小松山・前山の4つの峰がある)に築かれていたという。
本丸から南へ二の丸・厩曲輪・御膳曲輪・三の丸と続き、大手門付近の岩盤を利用した石垣が勇壮だ。

【歴   史】
仁治元年(1240)備中内の地頭職に任ぜられた相模国(神奈川県)の三浦氏一族・秋庭重信が築城。
正慶元年(1332)備後国(広島県)の三好一族・高橋氏の城となる。
その後、幾度も城主が替わり、16世紀に山陰の尼子Vs山陽の毛利という大勢力を背景に、庄氏(尼子)Vs三村氏(毛利)の覇権争いの舞台となり三村氏が城を取った。これを備前国(岡山県)の宇喜多直家が阻止しようとし、永禄9年(1566)三村家親を暗殺する。翌年には宇喜多軍に完敗。
元亀2年(1571)家親の子・元親はようやく態勢を立て直し松山城に再び入城を果たし、城郭の拡大整備は全山に及んだという。このころ宿敵・宇喜多直家は毛利氏と提携、元親はおもしろくなく毛利氏から離反した。
天正3年(1575)松山城は毛利の大軍に攻められ落城、元親は自刃したことで毛利氏の城となる。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功で徳川氏の備中代官職にあった小堀正次・政一父子が入城。政一はあの有名な大茶人で遠州流茶道の祖「小堀遠州」なのだ。そればかりでなく、作事が得意で、しかも有能な行政官でもあった。
その後、鳥取城から池田長幸、備中成羽城から水谷勝定が入城。

【攻城記】
有名だから説明要りませんね<手抜き

って、をい!(~_~;)

photo:ばつまるさん


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