別名 |
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内山城 |
築城年代 |
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縄張・種別 |
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朝鮮式/山城 |
築城者 |
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少弐氏 |
遺構 |
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石塁・空濠 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/8/3 |
【歴 史】
鎌倉から南北朝時代に活躍した北九州の大名である少弐氏が居城とした。
建久7年(1196)武藤資頼は鎌倉幕府より鎮西奉行に任ぜられ、「太宰府少弐」の官職名から少弐氏を名乗る。
建武3年(1336)北条氏が滅び征西府が設置される。同年、京にあった北朝・足利尊氏は楠木正成に敗れ九州へ敗走したので、太宰府城の少弐貞経・頼尚父子は尊氏の味方をするべく一族を率いて赤間関(下関)に出迎える。この留守中に南朝方の菊池氏や阿蘇氏が太宰府を占拠し周辺の支城を整備した。
貞経は大宰府に帰り有智山城にこもったが、菊池氏をはじめとする南朝軍に敗れ自刃。
頼尚が家督を継いだ。
戦国時代には中国地方の太守・大内氏の勢力に圧倒され、名門少弐氏もすっかり落ちぶれてしまった。
明応6年(1497)2万の軍勢で押し寄せた大内義隆により、当時の当主であった政資・高経父子は戦死。有智山城落城。
跡を継いだ政資の三男・資元は肥前の龍道寺氏をたより落ち延びた。
肥前の国人衆の協力を得て大宰府奪還を試み、岩屋城を陥落させたが、後に龍道寺氏が大内氏に寄ったので資元は後盾を失い、天文7年(1539)義隆により殺害されてしまった。
少弐氏11代で滅亡。
【攻城記】
-SPOOKさんの言訳-
事前調査もなく、また違う場所を撮ってしまったような
気がしますが、立て札だけで、素人には空堀もなんにも
見つけられませんでした(^^;
でも、レアでしょ。
【攻城記】
-ばつまるさんの説明-
ちなみに小弐氏の滅亡には宗像氏も関わってます。
対馬の宗氏の後ろ盾により太宰府を回復した小弐資元はその驕りから宗像大宮司の宗像氏佐から宗像家の家宝「金の猫」を要求し、宗像氏所蔵で1つしか持ってなかった金の猫を取り上げ、更に
「まだ持っているだろう、それも差し出せ」
と資元の無理な要求に絶えられなくなった氏佐は自害。
この件に強い怨みを抱いた宗像氏は小弐氏に仇を返す機会を伺い続け、太宰府の小弐氏が本城の有智山城回復への戦の準備する動きを察知した大宮司・宗像
興氏はその情報をいち早く山口の大内氏へ伝え、宗像氏も参戦の準備
大内氏も筑前支配を任せている杉興政へ指示を与え、杉氏は鞍手郡の小竹に布陣
さて炊飯でもしようかねって時に小弐氏がいきなりの奇襲。
杉氏の兵も空腹を抱えたまま応戦し、なんとか持ち堪えてるってところに実付きの楢の幡を背に差した宗像勢が文字通り横槍を入れ小弐氏は大崩れ。
更に増援に来た大内氏の兵に追撃され、弐氏は有智山城の回復どころか太宰府を捨てざるを得ぬ状況に陥り、小弐資元は逃げ延びた佐賀で自害。
資元の跡を継いだ冬尚も頼りとした宗氏や龍造寺氏から見捨てられ家を滅ぼす事に。
いや、驕れるもの久しからずですなぁ・・・
小弐氏の有智山城は標高867mの宝満山の中腹にあった山城で、本丸跡は杉木立の中、二重の石垣、二重の堀に囲まれたお城です。
それに対し、杉木立どころか見晴らしの良い畑・・・う〜ん武家屋敷跡
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