角牟礼城 tsunomure-castle 大分県玖珠郡玖珠町森角理山

陣屋の近くの末廣神社清水門/中平古戦場跡/二の丸跡(左列)
古戦場説明板・角牟礼守備兵Vs薩摩軍/三の丸跡/本丸跡の角理神社には源為朝を祀る(右列)


別名 --- 築城年代 久寿年間(1154〜56)
縄張・種別 ---/山城 築城者 源為朝
遺構 曲輪跡・石垣・土塁・竪堀
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/6/3


【構   え】
標高576mの角理山山頂一帯にあり、本丸は一番高い場所に位置し周囲を土塁でめぐらせ、北側は石垣と竪堀が遺構として残る。
比較的ゆるやかな傾斜の南側と南西方向に石垣で囲まれた二の丸・三の丸。
水の便もよくろう城に適した城であった。

【歴   史】
久寿年間(1154〜56)源為朝が築城したと伝えられる。
為朝は平安末期の武将で源義朝の弟、頼朝にとっては叔父にあたり、保元の乱のときには崇徳上皇方に味方した父為義を助け、平清盛や義朝が擁護する後白河天皇方と戦った。豪傑で弓の名人としても有名だ。
弘安年間(1278〜88)森三郎朝通(森村12町4段の地頭職)の居城となり、森氏の詰め城であった。
天正年間(1573〜92)森五郎左衛門鑑高(あきたか)のころ薩摩兵と交戦(豊薩戦争)、この堅固な城は落とされなかったという。
文禄2年(1593)文禄の役で失態をおかした大友義統にかわり、豊臣秀吉は直轄地とし玖珠郡に毛利高政を封じた。森氏も城を去る。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、高政が佐伯城へ移ると黒田孝高預かりとなり、そのあと来島康親が伊予国(愛媛県)来島城より入封。ただし、1万4000石と小大名であるため城持ちとなることが許されず、山麓に陣屋を築いたので城は放置された。

photo:ばつまるさん


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