首里城 shuri-castle |
沖縄県那覇市首里当蔵町 |
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正殿・守礼門・城址の碑(左列)
瑞泉門(右)と漏刻門・園比屋武御嶽石門(右列) |
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正殿 seiden
「国殿」また「百浦添」と呼ばれる琉球王国最大の木造建築物。紫禁城(中国・北京)の太和殿を模した造りといわれるが、巧みに日本の禅宗様式や琉球らしさを取り入れ独特で、高さ≒1.7mの石造り基壇の上に建つ美しい外観だ。
2層3階造りで、1階は公の儀式の場、2階は王家の私的な場であった。
守礼門 syureimon
観光パンフレットでも有名な第2の門は「守礼之邦(礼節を重んずる国)」と書かれた扁額がかかげられている。
中山門(下の鳥居)・守礼門(上の鳥居)・歓会門(正門)と通って城に至る。1527〜55年、第二尚氏王朝の尚清王代ことろに創建。唐様式と天竺様式を取り入れた琉球独自の姿となっている。1933年、国宝に指定されるも戦火により焼失。1958年、復元。
瑞泉門 zuisenmon・漏刻門 roukokumon
両門とも城壁の上に櫓をのせた形。瑞泉はめでたい泉の意。
漏刻は水で時を計るという意、中庭に日影台(日時計)と門櫓内に水時計が置かれ、太鼓でときを知らせたという。また、「駕籠寄(かごいせ)門」ともいい、位の高い三司官(さんしかん)もここで駕籠を降りた。
園比屋武御嶽石門 sonohyanutakiishimon
重文に指定された城を守る外御嶽の石門、後ろの林は聖域になっている。16世紀の初めに八重山(やえやま)のすぐれた石工・西塘(にしとう)が築いたもの。
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別名 |
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中山城 |
築城年代 |
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縄張・種別 |
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築城者 |
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遺構 |
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石垣 etc |
復原 |
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復興=守礼門はじめ多数・正殿はじめ多数・番所 |
国指定 |
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史跡 重文=園比屋武御嶽石門・玉陵 |
攻城年月日 |
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2003/12/13/'04/8 |
【構 え】
標高130mの首里台地南端の丘陵にあり、東西400m・南北270m・面積は46,167uにおよぶ。
二重の石垣で囲まれるようになったのは、尚巴志(しょうはし)時代と第二尚氏王朝の尚真王のころ(1477〜1526)の大拡張工事によってである。
【歴 史】
創建年代は不明だが、伝承によるとかなり古い時代から城が築かれていたという。
11〜12世紀にかけて琉球には「按司(あじ)」と呼ばれる豪族が出現し勢力を競った。14世紀はじめ按司の統合が進み、本島では小さいながらも山北・中山・山南の3つの国家が成立し、”三山”といわれる時代となった。
1416年、三山の中で抜きんでたのは中山(本島・中央部)で、尚巴志が山北を滅ぼし、1429年には山南をも滅亡させ統一国家を築き上る。これを第一尚氏王統といい7代・63年続いたが、1470年に内間金丸(うちまかなまる)により滅ぼされてしまう。
金丸が即位し「尚円(しょうえん)」と名乗り第二王統を成立。1609年、薩摩国(鹿児島県)の島津氏に侵略され薩摩藩の属領となるが、琉球王国として中国明・清にも朝貢する姿勢をとり両属態勢を続けた。
独自の官制・法制をつらぬき明治にいたる。
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photo:怪鳥さん/左列3葉・THUDさん/右列2葉 |
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