佐伯城 saiki-castle 大分県佐伯市鶴谷城山

三の丸櫓門/二の丸から本丸への渡り(左列) 二の丸跡/天守台跡(右列)

三の丸櫓門
「黒門」とも呼ばれ建造物としては唯一の遺構である。
釘づけされている「櫓門の記」という板書によると、寛永14年に創建され、享保11年に再建されたとあり、藩庁として山麓の三の丸が機能をはじめたときに創建されて、山頂城郭の改修工事にともない再建されたのではないか。
構造をみると、下層は石垣を切離したようなような3間の門にくぐり戸がつき、上層は櫓になっており入母屋造本瓦葺、前後には庇(ひさし)屋根がつけられ石落しの役目をしていた。
上部は白壁塗込め、中段より下は簓(ささら)子下見黒塗で格子窓がつけられている。


別名 鶴屋城・鶴城 築城年代 慶長9年(1604)
縄張・種別 ---/山城-平山城 築城者 毛利高政
遺構 三の丸櫓門・天守台・曲輪跡・石垣・堀切
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2001/6/16


【歴   史】
慶長9年(1604)豊後日田の隈城より毛利高政が入封し、番匠川の下流・標高140mの八幡山山頂及び山麓に城郭を築いた。関ヶ原合戦以降、本格的な山城の縄張りは珍しいことだ。
山頂は北から北の丸・本丸と天守曲輪・二の丸・西の丸で構成され、天守曲輪には3層の天守が築かれた。
寛永14年(1637)3代藩主・高尚のときに南東山麓に三の丸を設け、山城から居館を移す。
毛利高政は以前は森という姓で羽柴秀吉の家臣であったが、織田信長が本能寺で明智光秀に襲撃され亡くなると、中国の太守毛利と和睦するための人質となり「毛利」と改めた。
毛利氏12代世襲260年在城。

photo:ばつまるさん


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