佐賀城 saga-castle 佐賀県佐賀市城内
saga-castle photo
本丸御殿全景/石製樋管(左列) 天守台跡/鯱の門と付櫓(右列)

本丸御殿-ばつまるさんの説明-
この本丸御殿は残された資料と保存されていた御座間を元に、当時の本丸御殿を現在に復元したもので金、いや手間が非常にかかった建物です。
なにしろ窓は全面障子張り、障子風じゃなくて本物の和紙です! 雨戸もシャッターじゃなく昔ながらの戸板近くで見ると雨で、濡れて出来た染みの跡とか確認出来ます。それが建物全体に行き渡ってるから管理や毎日の開け閉め大変です。
障子に木造建築ですからエアコンの冷気もなかなか行き渡らずエアコンが効いてるのは展示室と休憩所となった屯之間ぐらい。
雨樋も一見プラスチックに見えますが触って見ると金属の肌触り、どうやら昔ながらの赤銅(もしくはブリキ?)を雨樋に使ってるようです。それを金属の輝きが嫌みにならない様年月を経た風に筒の上から塗料を塗ってる様です。
御殿の中に入ると屋内は全面畳張りで い草の匂いと杉や檜の匂いでたまらなくイイ匂いがします。
展示物も歴代藩主の肖像画や甲冑。これだけお金がかかってて入館無料だって言うんだから太っ腹です。もっとも復元されたのは改築に増築を重ねた御殿全体の1/3程度で、本来なら本丸内びっちり建物が建ち、まるで迷路の様に複雑に部屋が入り組んでたそうですが。
石製樋管-ばつまるさんの説明-
本丸内に上水を送り込む物。東京で言う所の玉川上水のミニチュア版かな?
平地で水に恵まれた佐賀平野で井戸を掘るのは造作もないのに、わざわざ樋管を作ったのは建物が多くて城内の水を賄える程の井戸を掘れなかったのか?もしくは佐賀城近辺の水は不味いからなのか?
天守台
東西70間(127m)、南北68間(124m)の本丸に5層の天守閣を持ち、この天守の北に鯱の門がある。
本丸以外に石垣が築かれなかったのは、元和の「一国一城令」に伴い、幕府が新たな郭(くるわ)の改造を禁止したためといわれる。
鯱の門
鯱の門は、幅25.45m奥行き4.5mで、棟の両端に青銅製の鯱があるところから名がついた。
鯱の門の周囲には高さ2間半(4m)の石垣が築かれ、石垣は本丸の部分だけで、北東にある二の丸や西方の三の丸は平地に土塁をめぐらし、上に松とうを植え目隠しとした。
鯱は青銅製の高さ1.7m・重さ20kg。


別名 栄城・亀甲城 築城年代 慶長7年(1602)
縄張・種別 環郭式/平城 築城者 鍋島勝茂
遺構 石垣・堀・鯱の門・同続櫓
復原 復元=本丸御殿・西南櫓台・石製樋管
国指定 重文=鯱の門・同続櫓
攻城年月日 2001/1/30・2004/9/17


【歴   史】
慶長4年(1599)〜元和元年(1615)戦国大名の竜造寺隆信の中村城を、鍋島直茂、勝茂親子が改造した。
佐賀城の地は藩政時代以前から、この地方の中心的な位置にあった。
築城から100年後の享保11年(1726)火災にあう。
明治7年(1874)佐賀の乱で破壊された。
佐賀の乱:
中央政府の命を受けた知事が軍隊を引き連れ入城!そのために江藤新平らの率いる佐賀藩士を中核とする征韓・憂国の両党が攻撃をしかけ、激しい攻防戦の中で城は焼かれた。

【攻城記】
先の8月に開館された佐賀城本丸御殿に行ってきました。
何故9月になって行ったかと言うと 8月中は夏休みで人が多いだろうと予測出来たのと暑かったから、でも9月になっても平日にも関わらず人は多かったよ〜。

photo:ばつまるさん


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