別名 |
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築城年代 |
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治承5年(1181) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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水俣四郎 |
遺構 |
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曲輪跡・石垣 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2003/8/4 |
【歴 史】
治承5年(1181)水俣四郎が砦を築いたのがはじまりという。
南北朝時代には村上源氏の流れをくみ後醍醐天皇を助け鎌倉幕府と戦った名和長利の孫、顕興の家来、本郷家久が南朝方として居城。
その後、球磨(くま)の相良氏の支配となる。
天正7年(1579)8月、島津氏は伊勢守忠春を大将として、1800余騎をもって、城代の深水宗方が守る水俣城を攻めた。城方はろう城しながらよく守り、島津軍は攻めあぐね、陣中で宴席をもうけた。
「秋風にみなまた落つる木の葉かな」
という句を作り、城へ向かって矢文を射ってみる。
しばらくしてこんどは城から陣中に、
「寄せては沈む月の浦波」
とお返しの句が射込まれたという。水俣の攻防戦はこの歌のやりとりで有名になった。
現在水俣に月浦という土地があり、島津軍はここに陣を張っていたと思われる。
さて、仕切り直し。天正9年島津軍はさらに大軍を率いて城に迫り、城代の犬童実作守も奮戦したが、斜陽ぎみだった相良氏が水俣の支配を放棄したので城は開城。島津氏の領土なり地頭が派遣された。
天正10年(1587)豊臣秀吉の西征により豊臣直轄領になると、城は深水宗方に預けられる。
慶長6年(1601)加藤清正が領し中村将監正師が城代となる。
慶長17年(1612)幕命により、宇土城・矢部城とともに廃城。
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