別名 |
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道伯城 |
築城年代 |
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慶長9年(1604) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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井上之房 |
遺構 |
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石垣・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/7/31 |
【歴 史】
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で戦功のあった黒田孝高・長政は、筑前52万石の太守となり、支城の整備や築城を行った。
この黒崎城には家老の井上之房が1万6千石(2万石という説もあり)を賜り城代となる。之房は最初、黒田職隆(孝高の父)に仕え数々の戦功があり、孝高の代になってから文禄元年(1592)の朝鮮の役に従って勇名を轟かせた。
関ヶ原合戦では九州の地で孝高とともに暴れまわり(笑)、豊後で西軍として挙兵した大友義統の軍勢と戦い、壊滅的な打撃を与えた。この後、大友氏は出羽国(秋田県)へ流配、歴史から姿を消してしまう。
城は一国一城令によりわずかな期間で廃城。
【説 明】
-by ばつまるさん-
黒田二十四騎の一人、井上之房の居城黒崎城。
道伯山の山頂に造られた城は一見山城の様ですが、城があった当時は北面を洞海湾東側は沼地、南側は堀、西側が港と城山全体を水で囲んだ水城的な山城です。
洞海湾は小倉から芦屋に通じる水道でもありますので、おそらく港には水上警備の兵船も多数繋がれていた事でしょう。
また、黒崎宿の御茶屋は最近発掘調査が始まったもの。御茶屋と言うと峠の茶屋と言う粗末なモノを思い浮かべるが、こちらの御茶屋は福岡藩が参勤交代で使った宿、つまり本陣跡です。
真ん中に井戸の様な石の囲いとそれに付随して石が並べられた溝らしきもの、もしかしたら当時の下水道かも
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