杵築城 kitsuki-castle 大分県杵築市城山

【説   明】
-ばつまるさん-
復元城では日本一小規模ながらインパクトは大の城!
1250年− 豊後国速見郡の八坂郷木付荘に、大友親秀の6男・親重が封ぜられ、氏を地名の木付と改める。
1712年− 能見家3代藩主・重休のとき 6代将軍・徳川家宣から下賜された朱印文の文字が、杵築と書き間違えられていた。そこで幕府にお伺いをたて木付を杵築に改称(よーするに機嫌取りでんな)

杵築城が切り立った岩山の上に建っているのがお分かりになると思います。側に建っている家との比較で分かりますが崖の高さは10数mしかなく、しかも雛壇の様に2段になっていますので、攻める側も崖自体にはそう苦労はしないでしょう。 もちろん守備側もそう言った不備は承知の上でしょうから、下の段にも兵を配置するでしょうが下の段は高さわずか5m、弓矢が充分届く範囲です。
天守閣が建っている山頂は横幅20m程度の狭い土地に建ってます。杵築城は再建された城で一番規模が小さいそうですが、場所的にこれ以上大きな城は建てられないのが実状でしょう。ああ、これでは充分な兵の配置も望めません。この崖が、あと5mも高ければ心理的威圧感により、攻める側は攻め辛く感じ、守る側は守りやすいのでしょうがねぇ。
また、この城は平地にありながら典型的な山城で城の両側を流れる八坂川、高見川を 天然の堀として見立ててますが水堀はありません。しかも固い岩山ですから井戸を掘るなんて望めません。水利は雨水か両川に頼らざるを得ない様です。 ただ両川は河口に近すぎる為、川の水は塩分を含んでる可能性が・・・。同じ海の側に建つ中津城と比較すると、中津城は籠城を考え、井戸の他に内堀から水を得られる様考えられていたのに対し、杵築城は籠城戦を戦術として考えて無いんじゃないかと思ってしまいます。これで籠城なんかになったら果たして何日保つか、不安です。
お堀代わりの八坂川と高見川ですが、河口付近が洲になってる事から水深が浅い川だと言う事がわかります。
水の少ない時期とは言え、こう水が少ない川に下手に乱杭打とうものなら、自軍の水路さえ確保出来なくなってしまいますね。この様な砂州がある川は川底浚渫してもすぐ砂が溜まるんで港としては使い辛いんですよねぇ・・・。
堀としては、ちと物足りない。(笑)

まるで山門の様な大手門です。大手門をくぐり1分足程度で天守閣に着きます。
杵築城天守からの眺望ですが、杵築の町自体、海に開けた盆地の様な形状で、かも城近くまで小山が連なって来てるものですから、半径1q先の山向こうは・・・五里霧中遠方も日出生台や安心院高原 国東半島の山々に妨げられ遠目も効きません。

城内に展示されていた鏑矢です。また、城内は石仏の里・国東らしく100以上の石塔が建ってました。

まとめ
先に中津城を見ていたせいか、つい両城を比較してしまいますが、総括すると中津城は小さいながらもしっかりした山椒は小粒の城なのに対し、杵築城はどこか惚けた寝ぼけ城の様な印象を受けました。これは戦国の緊張下に造られたのと豊臣氏が滅び、徳川安泰の時代に造られた違いですかねぇ?


別名 台山(だいざん)城 築城年代 明徳4年(1393)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 木付頼直
遺構 石垣・堀
復原 模擬=天守
国指定 ---
攻城年月日 2001/1/8

photo report:ばつまるさん


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