知覧城 chiran-castle 鹿児島県南九州市知覧町永里城内

薬研堀/本丸-竪堀道/倉ノ城-虎口/今城-土塁/城址遠景(左列)
枡形虎口/城址の碑/倉ノ城-曲輪/弓場城-土塁(右列)


別名 --- 築城年代 14世紀前半
縄張・種別 ---/山城 築城者 知覧忠世
遺構 曲輪跡・空堀・土塁etc...
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2009/吉日

【構   え】※「海路」第5号-海鳥社より
麓側に注ぐ小支流沿いのシラス台地、標高176Mを最高地点とする南北800M、東西900M、面積45万uほどを最盛期の城域とし、回りを周圏部が囲み、堀が廻っている。主体部は本丸・蔵之城・今城・弓場の4曲輪でそれぞれ土塁があり、浸食谷を使った巨大な空堀で区切られていた。大手口は城の西側で式部殿城曲輪の北側の空堀から入り本丸曲輪と蔵之城曲輪の間の枡形に至った。東側に接して家臣層の屋敷や町人の屋敷があった。西南の字「堀の内」には城主館が存在した。<地図は左下が北のようです>


【歴 史】※現地案内板より
鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命によってできた建久8年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいた。
その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦したが、ともに没落してしまい、文和2年(1353)に足利尊氏が島津氏5代島津貞久の弟佐多氏の初代忠光の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となった。
室町時代のはじめ、知覧は、そのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族である今給黎久俊(imakiirehisatoshi)が押領して、島津8代目久豊に反抗していたが、応永27年(1420)ついに降伏した。島津久豊は知覧城(当時は上木場城)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久に与えた。
天正19年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村の川辺宮村に領地を移された。10年後に復帰。
元和元年(1615)には徳川家康が一国一城の制をしいたが、それをまつまでもなく廃城になったようだ。

photo:ばつまるさん


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