homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
A sword/陣太刀の話


えっ!あのひとも
「はい、そうですよ。17才の時に関ケ原の合戦に参加していました」
「知りませんでした」
「ですから、彼も陣太刀を振るって大いに奮戦していたのでしょう。なにしろお強い方ですからね」
「やはりその当時は二刀流ではなかったのでしょうか?」
「槍を持ってではムリがあります」
「...やっぱし(~_~;)」
というわけで、あの宮本武蔵も使ったことのある陣太刀とは?
殺るか殺られるかの実戦用の武器なので見るからにゴツイといった感じ。長さは2尺〜3尺(60センチ〜90センチ)くらい。スマートさよりも丈夫さ重視!かなり乱暴に扱っても壊れにくく、一般武士の刀でも余計な飾りなど付いていない。
「兜割り」という話が伝わっている。本当に刀が兜に勝つのかな?
刀は砂鉄から取り出した鉄を何度も何度も鍛え、打つことにより強度と粘りが増す。性能のよい刀が達人の手にかかれば兜も割れるらしい。日本刀に比べると西洋の剣は銅鉄製なので曲がってしまいとても兜を割ることはできない。
「あの武蔵!関ヶ原に参戦」 と聞くと、さぞかし凛々しく騎馬武者として活躍したのだろうと思いきや、 ペイペイの足軽なのです。なんと我らとご同輩!(爆
武蔵の履歴
天正12年: 美作国(岡山県)吉野郡宮本村...現住所英田郡大原町宮本出身と伝えられ、 父は名を武仁、号を無二斎と称す武術者である。永禄年間に京都御所で武技 披露までしたことがあるとゆう。
13歳: 新当流の有馬喜兵衛と勝負して初勝利を得た。(^^)v
16歳: 但馬国の秋山某と試合をした。相手は強い兵法者であったが武蔵の勝ち!
17歳: 関ヶ原合戦に参戦。
21歳〜28歳: 京の都に上り60余人の兵法者と勝負して負け知らず。 強くて勝っているのではなく、単にこの道に器用なだけなのか、 それとも他流が弱すぎるのか、と道理を得ようとする迷いと鍛練する日々。
57歳: 寛永17年(1640)細川忠利の招きで肥後国(熊本県)にやってくる。
62歳: 永眠。
簡単な履歴だけれど、はっきりわかっていることはこのくらいだそうだ。 研究すればするほど資料のないことに専門家が驚くとゆう。
”巌流島の闘い”も”吉岡一門70名と決闘”したことも、「講談武蔵伝」 や吉川英治の「宮本武蔵」の小説が大ヒットしたので、真実めいてしまった ようだ。 しかも武蔵ではなく”武蔵”と名乗る別人の所業だったかも...とゆう 説まである。
兵法書「兵法三十五ヶ条」と「五輪書」は武蔵本人が書いた伝記なので、真実 を知るには信頼できるだろう。
関ヶ原合戦のときに彼は17歳、しかも家出同然に飛び出しているので、 食べるものにも事欠く日々であった。大戦となればひとりでも多くの兵を雇用して戦陣を整えたいところだ。 そこで、西軍の若き武将宇喜多秀家隊に入り、伏見城攻防や岐阜城攻め 参加した。 合戦の後、諸国を巡る修行の旅に出る。
その後、大坂冬の陣、夏の陣にはどこにも姿を見せていないところをみると、 合戦とか世の覇権とかにはぜんぜん興味がなく兵法の鍛練一筋で生きてゆく。
わたくしは吉川英治の「宮本武蔵」を読んでいないので、吉岡一門のことも詳 しくわからないが、 おそらくこの○人斬り講談から出た話だと思う。 刀に油がのっちゃってそうそう斬れるものではないだろう。 斬り合いの途中で研ぐわけにもいかないし...。(~_~;)
何処の誰の部隊に参加?成績はどうだった?
当然宇喜多隊は西軍なので敗者となってしまった。
面白い逸話が残っている。 戦が終わった戦場では、勝者が戦死者に名のある武将がいないか、生き残っ ている者はいないかチェックしてまわるのが常。逃げ遅れた武蔵は生きていることがわかると槍で突かれたりするので、死ん だ振りをしてジッとしていた。
さて、夜になりもう安心とムックリ起き上がると、今度は欲に取りつかれた 追いはぎがたむろしているので、命のキケンを感じ慌てて山の中へ逃げ込んだのだそうだ。(笑

後の剣豪、宮本武蔵も兵法(剣術)を学ぶため修行に明け暮れた。
この兵法が「芸道」となったのは室町時代後期からだとういう。戦場での武士は兵法にのっとった太刀の使い方をした。
巧者は「物きり」「打物達者」などとよばれ、腕がイイと仕官ができる。しかし純粋に武芸者として生きたいと源平合戦の頃より独自の流派を確立した者が大勢いる。そして武蔵も二度と戦場へ現れなかった。
小説の中で剣の達人といえば眠狂四郎!得意技は”陣形”にも載っている「偃月殺法」!(^○^)

何がなんでも勝たなければ
実戦では鉄砲や槍に比べると殺傷力はかなり劣るが、甲冑では覆いきれない顔面、脇、すねなどに攻撃した。
武将は大小1振を腰に吊し、スペアを背に2振背負っていた。足軽は大小を腰に差し、それぞれ鉄砲、槍、弓を持って戦場を駆け回る。
短刀は討ち取った敵の首を刎ねるためばかりでなく、最終的に取っ組み合いになったときでも腰に手を伸ばし、サッと相手の喉元を突くことができる。敵将の首級(きゅうしゅ)イコールごほうびなので重要な意味がある。
こん日江戸時代劇でお目にかかる刀より刃(は)を厚くしてある。甲冑で身を固めている敵には歯が立たない、そこで斬るというより叩いたり、突いたりするのに効果がある。が、中には斬ることを目的とした寝刃(ねば)というノコギリの刃のようなモノもあった。

構え方指南
宮本武蔵二天一流 武蔵会)の四角さんからのご指南をいただきました。
八双
鎧武者の場合の上段の構えになっています。
八双にする場合、左手が肩より下になります。
細かい位置は各流派で様々です。
飾りや肩金の付いた兜を被った武者が上段に振りかぶる場合、これらの邪魔にならな い右の口元に左拳、眉間横に右拳が基本です。
この構えから(薙ぎ・突き)などの攻 撃をします。
脇構え
この図は私たちの流派では違う意味の構えです。
この構えは四囲を囲まれた状況で前方に気合を飛ばしつつ後方にも牽制し必要が有れ ば速攻で後方にも攻撃できる構えです。
脇構えの一番の特徴(利点)は相手に自分の得物の正体を知られないことですから、 相手には抉りを向け刃の部分は体で隠蔽して見せないようにしなければなりません。
敵が周囲に一杯いる足軽や鎧武者がこの構えを取ることはあまりないと思います。
一対一の立会いでこそ真価を発揮する構えです。
二天一流に伝わる構え
有構無構と申しまして構え有って構え無しが基本です。
ですからどのような状況にも水の流れのように自然に対応できるよう、こ の時にはこの構えというのはあまり考えないようにしております。
二天一流の二刀流 で上段は片方の(小)太刀を相手に向け、もう片方を担ぐように背中に回します。 (まるで忍者のような形です)

Back
Home