homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
Ootsuka-monument/annulus moat colony in the Yayoi
大塚遺跡/弥生時代の環濠集落

復元住居は6人くらいまでOK(^O^)/型どり遺構(左列)
環濠集落の濠と防柵/点在する復元住居(右列)





住所:神奈川県横浜市都筑区中川中央1−18−1
国指定=史跡

写真は「大塚遺跡」、≒2000年前の環濠集落の姿を再現している遺跡公園で、環濠・土塁・木柵と弥生式竪穴住居7棟・高床式倉庫1棟が復元されている。
※隣接の「歳勝土遺跡」は大塚遺跡に居住していたひとびとの墓地であり、”方形周溝墓(四角形に土盛りし、四辺を溝で囲む)”という形。

環濠集落(環溝集落)
弥生時代は戦いの時代で、「ムラ」を守るべき工夫がなされていた。
一般的には、ひとが飛び越えられないほどの濠で集落を囲い、濠の外側には土塁を盛り、さらに木の柵が設けられていたという。住居や食物倉庫だけでなく物見櫓(楼観)を築かれていた。また外敵に備えるだけでなく、排水・排湿・害獣対策にも役立った。
弥生式住居
生活形態をみると、狩猟から水稲農耕に変わり、移動生活が定住へと変化した。
これにより住居も丘の上から稲作に適した平地へと移る。
低い土地は湿気が多いため、生活の場を竪穴を掘らず地表に上げ、家の周囲には板をめぐらせ間に土を盛って、竪穴と同じようになるよう土壁で囲った。こういう造りを「平地住居」という。また、平面の形は西日本が基本的に正方形なのに対し、東日本は楕円形もしくは隅円方形だ。
さまざまな方法で建てられていたが、上屋として直径10cm強の主柱を建て、上部を横架材で結び斜めに材をかける方法、また主柱を用いず斜めの材を複数組合せて合掌造り(サス構造)にし、ゆるまないように支柱を立てる方法とうがあったと考えられている。

photo:荒賀源外さん
2004/1/25
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