homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
neck wash well of Yoshitsune-Minamoto/源義経公の首洗い井戸



これが首洗い井戸、中を覗いてみたところ完全に涸れ井戸になっている。
旧東海道の白幡交差点の手前30mくらいの場所を右に入ったところにある(横浜方面より)、10坪ほどの住宅とマンションに囲まれた小さな公園の中にありました。
写真右上は、昔近くにあったという首塚、現在はこの位置に移設されたようです。
左は、井戸の脇にある「九郎尊神」と刻まれた石碑。
<源外さんのコメント>

住所:神奈川県藤沢市

伝 源義経首洗井については、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」によると、兄・頼朝に追われた義経は奥州に逃れたが、文治5年(1189)義経を匿ってくれた藤原秀衡(ひでひら)の後を継いだ泰衡(やすひら)が頼朝に屈し、数百騎を率いて義経の衣川館を襲い討ち取った。
”衣川の合戦”として名高い。
泰衡から義経の首が鎌倉に届けられると首実検が行われ、のちに片瀬海岸に捨てられたという。
それが潮にのって境川をさかのぼり漂っていたのを里のひとがすくいあげ、洗い清めた井戸といわれる。

泰衡は義経を葬ったことで頼朝の心象をよくしたと楽観的に考えていたが、頼朝はそんな甘い人物ではなかった。
総勢28万4千という大軍を三方に分け、自らは白河関を突破して奥州に入り、泰衡の兄・国衡率いる藤原軍の主力部隊を伊達郡阿津賀志山に破り打撃を与え、玉造郡多加波々城で泰衡を追いつめ、奥州藤原氏の本拠地である平泉を囲んだ。
泰衡は4代で築き上げた平泉文化に火をかけ蝦夷(北海道)をめざし逃亡するが、糠部郡(青森県)に辿りついたところで、家臣の裏切りにあい河田次郎に殺害されてしまう。
その首もまた頼朝のもとへ送られたという。

photo:荒賀源外さん
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