homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
monument excavation scene/musashimichi/武蔵路/遺跡発掘現場

埼玉県所沢市の遺跡発掘現場。同県は古墳や遺跡の多いところだ。これは華帯畄さんの家の近所で発掘されていた「東の上遺跡」。

※下記は「説明板」参照。

奈良・平安時代の[東の上遺跡]
これまでに発見された奈良・平安時代の遺構には、竪穴住居あと300軒・掘立柱建物跡85棟・道路遺構2条などがあり、特に重要なものとして南陵中学校校庭で≒100mにわたって発見された幅12mの直線道路跡があげられる。
この道路は7世紀中頃に建設された官道(都と日本各地を結ぶために作られた国道:現在の高速道路網にあたる)のひとつである「東山道武蔵路(tousando-musashimichi)」と考えられており、主にこの道路跡周辺から住居跡や米を蓄えるための倉庫(掘立建物跡)などが多数発見されている。
また、これらの遺跡からは、馬具・馬の歯・炭化米・墨書土器・火打ち金・金環・丸柄のほか、表面に具注暦、裏面に馬の戯画が描かれた漆紙文書など、一般の集落では見られない遺物が出土している。これらのことから東の上遺跡は武蔵路に置かれた駅家(umaya)を中心とする集落ではなかったかと考えられているが、現在のところこれを裏付ける文字資料は発見されていない。しかし奈良・平安時代の集落が成立した時期は武蔵路開通とほぼ同時期と考えられており、集落の成立と武蔵路は密接な関係にあるといえるだろう。
なお、奈良・平安時代の遺構分布については、道路跡の東西で様子が異なっているいることが明らかになった。道路跡の東側は大型住居跡や掘立柱建物跡が集中し、西側は比較的小型の住居跡が分布する傾向が見られる。
武蔵路の形状
この武蔵路は≒12mの道路幅をもち、南北に一直線に延びていた。このような現代の幹線道路とほとんど変わらない形状をもつ武蔵路の発見は、幅3〜4mで曲がりくねっていたという従来の官道のイメージをくつがえすこととなった。
官道が直線的に幅広く建設された理由として、
@目的地に最短距離で達するため
A大量の兵員を移動させるため
B巨大な土木工事によって政府の威信を示す
といった目的があったようだ。
こうして必要以上に立派に造られた官道も充分に活用されることなく、比較的短期間で幅を縮小していったことが東の上遺跡や国分寺地区の調査で明らかになっている。
駅家と東の上遺跡
武蔵路には5箇所の駅家が置かれていたと考えられる。駅家とは、都からの使者や国司などの上級役人が利用する馬や、宿泊施設を備えた建物・役所のことで、官路上に≒16km間隔で置かれていたとされる。
歴史地理学では東の上遺跡を、国府付近に置かれていた最初の駅家から数えて2番目の駅家と想定しているが、これまでのところこれを裏付ける木簡や墨書土器などの文字資料は出土していない。しかし
@東の上遺跡は国府の北役14kmに位置し、駅家で多く見られる遺物が多数出土していること
A東の上遺跡の北16kmに位置する川越市若宮・八幡前遺跡では、「駅長」と書かれた土器が出土しており、駅家であることが確実視されている
などから有力な駅家推定地のひとつとされている。

photo:華帯畄さん
2005/5/4
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