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とある日の午後、戦国軍事評論家のわたくしの元へ一通の鑑定依頼Mailがきた。
にゃご家の家宝の土器写真を送付します。
あまり詳しくないので、いいかげんな推測ですが、デザインがあっさりしているので、
弥生式土器だと思います。鑑定をお願いいたします。(^0^)/
嫁aの田舎の田畑では、こんなのがザックザク出たそうですが、
全部教育委員会とかが全部持って帰っちゃったそうです。
たまたま残っていたのを見つけてワチが貰ったものです。 |
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愛媛県松山市川内町から出土の土器、カケていて頭の方がどうなっているのか解らないのが惜しいが、表面をみるとにゃるほどツルツルしているのでよく見かける縄文・弥生土器ではないようだ。ではいったい?
実はこれ弥生式土器の発展したもので本質は同じなのだが、土師器(はじき)といわれている。土師器とは古墳時代以降、奈良・平安時代まで作られ使われていた土器で、4世紀頃から西日本を中心に広がり、弥生式器の流れの延長にあるが、古墳時代のものなので別の名前で呼ばれているのだ。
初期のものは各地か出土する弥生式土器の面影を残しているので、器の形もいろいろあるが、特徴としては装飾性が少なく時を下るに連れ文様はみられなくなる。5世紀中頃以降になると全国統一の形になり写真のように極めてシンプル。色は褐色・赤褐色、形は杯(つき)・高杯・壷・甕(かめ)・甑(こしき)・鉢・器台などがある。
焼成温度は弥生式土器と同様800度前後、成形は輪積みや巻き上げ法。
古墳時代には土師器と並び須恵器(すえき)とゆう土器も作っていた。
こちらは1000度以上の還元炎で焼成された硬質の土器で、うわ薬をかけたもので、成形にはロクロが用いられ丘陵斜面に登り窯(かま)を築いて焼いた。色は灰色で焼成中に酸素を供給すると薄茶色になってしまう。日本最古の窯で焼いた土器ということになる。
やがてこの技術は地方へ広がり、瀬戸焼・備前焼・常滑焼・美濃焼とうとう中世窯業へと引き継がれ今日に至るのだ。
鑑定結果!やっぱし、土師器だと思うゾ!(^O^) |
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phtot:にゃごりんさん |
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